我がふるさと馬籠はいづこ 優しき恵那よいつか帰らむ…
中山道馬籠宿から望む 恵那山
私が生まれ育ったところには 明治時代のものは勿論の
こと 大正の風物詩が沢山ありました
ふと周りを見渡せば 其処は 小中規模な街場に近い
農村と言うだけでも無く
辺り一面には果樹畑や桑畑が 数多く広がっていた様に
記憶しております
この地域では戦前戦後を通して 養蚕が国内でも最たる
ほどに盛んだった時代がありました
その名残が多分に手伝ってか
昭和三十年代及び四十年代初頭ぐらいまでは
蚕の幼虫は蚕様(かいこさま)と呼ばれ
彼らの主食たる桑の葉っぱを栽培する為に 桑畑が彼方
此方(あちこち)に 点在しておりました
蚕糸工場や染色工場 其れに縫製工場など
多岐に渡る繊維産業の工場が 繁栄の程度こそまちまち
ではあれ
確かに ごく普通に稼働をしておりましたし その息吹
も未だ未だ健在でありました
昭和の桑畑
更に人間ウォッチング…
人々に於ける風物に目を向ければ 其処は半世紀以上も
昔の 私が未だ子供時分のこと
江戸時代末期生まれの方も ごく稀にはおいでになりま
したし
明治 大正生まれの方々は 至極当たり前に多数派であ
り 未だ未だ主役でもありました
必然 今を起点に考えれば 生きた文化である江戸 明治
大正生まれの人々が ごくごく普通に目の前に存在し
自らが実際に経験をした生きた記憶をもって 私たちに
直に伝えてくれましたし
それらはまた実体験ゆえの 子供心にも十分に響き納得
の行くものでもありました
然も 子供にとっては何よりも嬉しく 後々迄も自らの
宝物となり得る 心の内に生じた秘めたる想い…
それは何ら特別なことでは無く 贈る側も受け取る側も
無意識の内に紡ぐ「ひとの恩」…
即ち先人たちから日常的に 優しき願いを込めながら
出し惜しみすることも無く
伝えて貰えていたと言う 心に染み入る事実であり
先達から後生の者たちへの贈り物 そして紡ぐべく無償
の愛情そのもの でもありました
冬季の桑畑
更に目を移せば 建物を始め様々な建造物に於いては
流石に 寺社仏閣以外のものに江戸 明治のものを見掛
けることは余り無く…
大正と昭和戦前のものが 殆どでありました
幼少期と少年期を通し…
余りにも身近と言うことも相まってか
私が昭和のものに心惹かれると言うことは 殆ど有りま
せんでした
しかし 大正期のものに対しては 些か違いました
形とか色合いなど 機能性だけでは無い芯の遊び心や
洒落た趣もあり また散りばめられ…
人の心に語り掛けて来る様な 作者の意図や熱き想いが
確かに存在していた様にも想います
今更ながらですが
大正期が我が国の庶民に与えた 様々な夢や希望 其れに
教養 そして教養から齎(もたら)される心の安らぎ
日本人として其れらのことを 染み染みと偲んでみたく
もなってしまいます
実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂い
海の日の沈むを見れば 激り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐じお…
明治 大正 昭和のときを見詰め そして噛み締めながら
自我と言うものを確立し
殆どの日本人が時代の渦に そして激流に翻弄される中
ものの本質を見る目を 決して失うこと無く
七十一年の 夢と現実と戸惑いの生涯を憂い そして生
き抜いた
文豪 島崎藤村の心情に想いを巡らせ…
私なりに 韻文の詩に認めてみました
いづれの日にか 國に帰らむ…
こころ恋しき 遠き馬籠よ
遥か故郷(こきょう)よ
何時か 帰らむ…
我が心は 木曽路にありて
しばし佇み 坂を登らむ
此の身に遠き 愛しき住処(すみか)よ
急いてばかりか 戸惑うこの歩は
此(こ)から何処(いずこ)へ
流浪の身 なれば
終ぞ帰れぬ 流浪の身なれば …
焦がる想いは 止むことも無く
幼きあの日に ただただ託さむ
見慣れし彼の峰 紅付く頃か
晩秋の色は 見慣れしはずも
捨てし古里 ただ恋しくて
余計に身に染む 優しき恵那よ
旅情の様には もう行くまいに
馬籠は朧(おぼろ)か
千曲の水面(みなも)哀しき …
(せおりつひめ)とは一対であり
天照と瀬織津は男神天照(だんしんあまてる)
の優しき古里恵那へ ともに想いを馳せる…
文豪島崎藤村のみならず 其処は日本人の
そして人類の浪漫 心の故郷なのかも 知れない…
馬籠宿
千曲川の水面