松島讃歌…或る 昭和の 忘れ難き日
仙台駅構内の仙石線
仙石線に乗って 松島へ行った
三歳の私にとって 人生初の遠出であった
海が大きいかどうか とても興味があったし
それは 自分の中では この旅の最大のテーマでもあった
車窓越しに見える海は
私にとっては勿論 初めて見る海…
年齢的なものと言うより 恐らくは
持って生まれた 性格なのか
何故か 驚きが全く無かったことを記憶する
幼い私が驚くのを 楽しみに
連れて行ってくれた両親に対して
今想えばではあるが 甚だ遅れ馳せながら…
愛想の無い反応しか出来なかった 気恥ずかしさと
在り来たりだが 感謝の気持ちで 一杯である…
これは 光り輝く昭和三十年代の
人々が 未だ未だ 希望に満ち溢れていた時節の
私にとっての特別な一日の 記憶である…
現在の松島
三歳のとき 両親と一緒に松島へ行った
三歳も ふた月み月は過ぎていたので
この頃の記憶に残っているものは 些か鮮明である
しかし 伊達駅から仙台駅までの記憶は 全く無い
覚えているのは 松島に着いて水族館を観たこと
遊園地で飛行機に乗って 下にいる母親に手を振ったら
あの愛想の薄い母親が満面の笑みで 思いっきり
手を振っていたこと
松島から仙台駅に戻る汽車の中
父親が満足気に 私に話し掛けた時のこと
「 おい としのり… 海はでっかいだろう びっくりしたか 」
私が想ったままに言ってしまったこと
「 なーんだ こんなの海かい 沼だよない つまらねえ 」
子供ゆえの滑稽さ なのだろうか…
汽車の中の大人たちに 受けてしまった
「 お兄ちゃん そんなこと言ってだめよ
お父さんもお母さんも がっかりするからね 」
どこぞの おばちゃんが 優しく言ってくれたこと…
皆んなで和みながら仙台駅に着いた
しかしその後 仙台駅での待ち時間が長くて 大変
だったこと
昔の仙台駅
当時は何と何と 全てが蒸気機関車
エアコンどころか 冷房さえも当たり前に無いので
汽車の窓は全開…
仙台駅の構内やホームには 沢山の汽車たちが停車を
していて どれかが走り出した
煙いのなんのって それはもう凄いものだった
そして 駅弁売りが
「 えー べーんとー べんとべんとー
べーんとー だよっ 」
多分これで間違い無かったかと 記憶する
買ってもらった
巻き寿司を 買ってもらった…
自分が知っている海苔巻きとは違って
真ん中には色々な具が入っていて 驚いた
見たことが無い
海苔の代わりに 玉子焼きで巻いてあった
美味かった…
その内にまた そこいらの汽車が走り出し
真っ黒い煙をモクモクと掛けられる
私は負けじと 巻き寿司にかぶりつく…
昭和の駅弁売り風景
仙台駅を後にする時 私はもう 眠りに就いていた
不便さも一種の贅沢だとか 別の楽しみであるとか
考え方は色々あるとは想うが 私はこう考える
当時は不便だった
色々思い通りにならないのが 普通…
その中に ほんの少しの便利さだとか
微々たる快適さだとか
美味いものを食べれる幸せだとか
ほんの少しの贅沢や満足を
探すこと自体が 幸せであった…
だから 助け合うことが当たり前に出来たし
互いに満足を知り 幸せをしっかり見詰め
それを感じ合うことさえも 出来た
蒸気機関車が消えてから
右肩上がりで SL人気が上昇し 今では高値安定…
今の時代の 数多のSLファンたちには
到底味わえ無いであろう 飛び切りの贅沢を
日常の暮らしの中で
貧しい時代に
私は沢山 味わえたのである…
長いモクモクと 大きな沼 そして玉子巻き
とある昭和の日に於ける 心の浪漫 より…
昔の仙台駅と蒸気機関車
拝啓 兄ちゃん 母ちゃん 父ちゃん…懐かしき昭和の日々
母 兄 祖母(母の生家にて)
貧しいなりに 皆んなが寄り添い
気持ちを寄せ合い 助け合い
微力ながらも出し惜しみすること無く
相手の力になろうとして 世話をやく
そして何時も 何気に互いの心情を察しながら
心配もし合い
物珍しい食べもの 美味しそうな食べ物
誰かからの頂き物を 家族で譲り合い分け合い
友だちや遊び仲間たちと 分かち合い
それを普通に 互いの歓びとした日常
そして 当たり前に出来た時代
母親の生家に何の気兼ねもせずに遊びに行けた
あの何とも言えぬ心地良さ 然も心強さよ…
生きて行くのに人を押し退けなくとも
飢えること無く
自分次第で何とかなると言う 有難き時節よ
そんな時代があった…
兄 宣仁 三歳
戦後 昭和二十年代を過ぎ
三十年代 そして四十年代初頭に掛けて…
生命力溢るる 日本の雄々し児 たち
近所のガキ大将は 面倒な奴 兼
皆んなの頼れる相談役でもある
仲間目線で 共に涙してくれる優しい兄
面白いことに偶には 姉もいた
勿論 医療など充分なものは 未だ何処にも無く
本当に悪化する前には 特効薬のペニシリン注射
で完治していた
後は 生きるも死ぬも その者の持つ生命力に
委ねられた そんな時代であった
小遣いは 日に五円から十円で
アイスやらカステイラ それにコッペパン
懐かしいフルタのチョコ インスタントラーメン
コロッケやメンチカツ どれも一応は買えた
色んな くじ引きも 一日一回は出来た…
しかしながら それを遣ると お菓子は買えなく
なる為
必然 選択と決断が要求される
子どもにとっての大いなる学びが 神様から
楽しさと共に 与えられていた
筆者 三歳
大人たちは週休一日が普通であり それが当たり
前だった時代…
皆んな 疲れは笑い飛ばしながら やり過ごした
これから来るはずであろう輝く未来に 夢を託し
た そうして頑張っていた
子どもの遊びは多少の投資を伴ったが
豆パッチ(小さなメンコ)と
虫捕り網 魚獲り網以外の出費は 殆ど無く
自然の中での遊びは 本当に面白く
驚きの連続でもあり また楽しかった
近所の子どもたちは皆んなが 半ば兄弟の様な
時代であり
それは決して 大袈裟な表現ではなかった
そして我が家が 一番輝いていた時を 私は
幼いながらも ぼんやりと
然も 鮮明にさえ 覚えている…
忘れない様に 心に刻み付けていたのだと想う
二年と五ヶ月 私よりも年長の兄が 未だ
生きている頃の我が家は
矢張り 慎ましくも楽しく 希望に溢れていた
昭和と言う 天の岩戸が全開の明るい空気も相ま
ってか
水が清涼でとても美しく 空気は色が明るく躍動
感に満ち溢れていた
農業も盛んで 田畑には何時も 手が入り
季節ごとの彩を蓄え 当たり前の風物詩として
皆んなの感性を 和ませてくれた
里山にも雑木林にも竹林にも 人の手が入り
想いがそこいら中に 満ち溢れていた
貧しいながらも 家族が元気に過ごし
母ちゃんも父ちゃんも
兄ちゃんと自分に それなりに美味いものを
配ってくれていた様に 覚えている
兄 三歳 近所の友だちと
国道四号線が近くを通って間も無く だった
母ちゃんと一緒に芹を採りに行って来てから
さっきまで一緒に自宅の部屋にいた兄ちゃんが
突然帰って来なかった…
酔っ払い運転の三輪車に跳ね飛ばされ 亡くなった
四歳と七ヶ月だった
兄ちゃんの決めて来たことにせよ
兄ちゃん それに母ちゃんと父ちゃんの気持ちを
考えると 今でも切なくなる…
我が家は その後直ぐに 同じ町内の川向いに出
来た 木造一戸建ての町営住宅に引っ越した
昭和ノスタルジーの代名詞 木造一戸建ては
小さいが良い雰囲気に包まれていた
果樹畑や丘や雑木林など 豊かな風物詩との
絶妙な融合は
幼いながらも充分に 堪能出来るものであった
突然の公営住宅入居については
我が家は一度 落選したが
入居予定者にキャンセルが出た為の 繰り上げ当
選だったらしい
近くの学校に勤務する教員の方が
転勤の動向次第で入居すべく 押さえていた為だ
った とのこと
いつの時代も公務員権益とは 本当に勝手なもの
である
筆者 三歳 父と
私は 自らの魂の遍歴を知っていると言うことが
特殊な能力とは 全く想わないし
出来れば その様な能力は 極力無い方が
楽に生きることが出来たのではないか とも想う
もしも 自らの過去生がとても印象に深いもので
あったにせよ
それがどんなに 共感出来るものであったにせよ
私は今 この世を生きている
兄ちゃんと 母ちゃんと 父ちゃんと過ごした
幼い日のことは 何にも代え難い 宝物である
皆んな もう亡くなってしまったが…
三人に対する感謝とか懐かしさは
どんなことがあろうとも いつ迄も色褪せること
は無い
遅くに授かった 一人娘が今春 大学に行く…
恐らくは 年に数回しか会うことが出来無いであ
ろう 遠くに行く…
妻と二人の生活に戻ることが 直ぐ目の前にある
幼少の頃に 遥か遠くに見えていた未来が
そこに 訪れている様でもある
拝啓 異人たちよ…
束の間のときを 私の為に費やしてくれた
その心に 今改めて 深き感謝を捧げたい
これからも いつ迄も 永遠(とわ)に…
懐かしき昭和三十年代前半に於ける
お世話になった異人たちとの日々 より…
筆者 五歳
大好きな ミレーの晩鐘(アンジェラスの鐘)
小さい秋見付けた 五十五年前の追想…
小さい秋 小さい秋 小さい秋 見付けた
小さい秋 小さい秋 小さい秋 見付けた…
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見付けた
小さい秋 小さい秋 小さい秋 見付けた…
新譜として発表されて間も無く
私の同級生 ひろちゃん こと 博之くんが
我が家の檜葉の垣根の直ぐ傍で
何気無しに 口ずさんでいた
一緒に遊ぼうとして 家の勝手口から
出て行ったら
近所のおっちゃんが ひろちゃんに声を掛けた
「 何歌ってるんだ 上手だなー 」
ひろちゃんは 顔を真っ赤にして
とても恥ずかしそうに 走って行った
当時は テレビが普及して間もない頃で
今では 伝説の様に語り継がれる歌や
様々な風物詩を
ほぼタイムリーに体感することが出来た
本当に 面白い時代だった…
博之くんは 私と
何をして 遊ぶつもりだったのだろうか
終ぞ 聞かずじまいで 終わってしまう…
昭和三十年代半ばの
秋の日の想い出 より…
映画少年時代に見る心の旅路 夢はつまり 想い出のあとさき…
武と進二
大東亜戦争に於ける末期
戦況の悪化に伴い
想像を絶する頻度での
米軍による本土空襲の渦の中
民間人に対する無差別殺戮の意図を
充分に 把握出来た時点で
子供たちを守るべく 学童疎開が始まった
そこには 副産物であるにも関わらず
日本人の心の奥底に
最たる記憶として 永遠に生き続ける
心の旅路が 数多(あまた)残された…
所謂 苦しい中 悲しみの中
健気に明るく 精一杯生き抜いた証が
そこには 確かにあった
人が他人を思い遣る心 絆があった…
それにしても 富山から望む立山は
何と凛々しいことか…
随分前のことだが
戦時中 未だ幼かった位の年代の人々が
感極まった映画
それと その主題歌があった
私は未だ 三十代前半で
カラオケも随分 楽しませて頂いた
当時のカラオケは
スナックなどで楽しむのが 一般的で
余り下手でも 逆に上手くとも
「白ける」と言った
所謂 一般庶民の 社交の場と化していた
今考えれば
何とつまらないこと だろうか
本末転倒 面倒臭い…
偶々 ではあるが
私は この曲を
周りよりも少しだけ 早く覚えた
偶然なのか…
嗚呼なんか
この曲 聴いたことあるっけ…
皆んなが未だ 認知し切っていない
ほんの束の間の 狭間の期間…
勿論 飲み屋さんでの 微熱唱
気付けば何と 周りの友人やら
他の客から やんやの喝采
ふと 周りを見れば
泪ぐんでる おっちゃん
感慨深げに 目を遠くしている 兄さんも
何だこりゃ であった…
瞬く間に 曲はヒットし
少し後には しごく 当たり前の様に
百年も前から 知っているかの様に
其処彼処(そこかしこ)で
誰もが 歌いまくっていた
勿論 話題にもなっていた
歌詞は魅力的過ぎる…
夏祭り 宵かがり
胸のたかなりに あわせて
八月は夢花火 私の心は夏模様
目が覚めて 夢のあと
長い影が 夜にのびて 星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき
今でも充分 魂に伝わり
タイムスリップするのに 事欠かない
曲の持っている使命とでも 言おうか
誰でも 男だったら尚更
祭りに行く時の あの 気持ちの高鳴り
それに 興奮…
全てが終わり ふと我に返って
夜空には満天の星達が
それは まるで 夢のよう…
何時かは 想い出となってしまう
そして 視点を変えて見る
そこにはもっと 大きなメッセージが あると想う
何時までも
少年と男との間を行き交い 揺れる
そんな彼等を優しく見詰め 包んでくれる
女性への 憧れである…
彼女達は母の様に 優しい姉の如く
そして まるで幼な子に接する祖母みたいに
優しく 包み込んでくれる
男女には本当に 役割分担があり
お互いを 認め合う事が
何より 大切なこと…
女性達に 敬意を表したい
これらは 飽くまで
私なりの感じ方に 過ぎないが…
最後になるが
映画「少年時代」のラスト
手を振らない たけし
理由について
世間では 喧々囂々 言われた
「 手を振れば
永遠の別れになってしまうから 」など
これも 至極 もっともであろう
しかし 別の観方も…
何気無い日々の中
二人の少年は 気付いていなかった
一緒が普通で
互いに裏切らないのが
当たり前だったから
進二が いざ 疎開から引き揚げる時
彼等は気付いてしまう
何にも代え難い 絆があったこと
信頼し合っていたこと
だから 機関車の窓から手を振る
進二を観つつ たけしは
手を振り返すよりも
全力で直立不動 手を挙げた
たけしは 進二に対し
信頼に値する友への 敬意を表したかった
そう あれは 敬礼だった…
二人とも いつまでも 観ていた
夢は つまり
想い出の あとさき…
人の絆の浪漫 より…
国府台から矢切に掛けての文学的浪漫と 日本人のこころ…
里見公園下の道標
松戸街道沿い一帯に広がる情景には
何故か 自らの感性ごと
引き込まれてしまう様な 妙な魅力を感じる
私にとっては そんな 表現に難い魅力に溢れ
た土地柄だった様に想う
視覚的には勿論のこと
散文から飛び出して来たかの様な
何か目には見え無いものへの焦がれなのか
私の中の心情に於いては 何時もそうだった
市川市街から なだらかな勾配を登り
国府台と上矢切 中矢切周辺を 散策する
その変化に富んだ丘陵地を満喫しながら
それらを 主なモチーフとして見たときに
遠くまで広がる 見晴らしの良さが醸し出す
彩の寂し気な 儚き情景や郷愁…
向こう側が見えそうで見えないほどに
遠く広がる畑 それに原っぱ…
ミレーの晩鐘で著名な「アンジェラスの鐘」
の如き 人の心に訴える様な 遥かな哀愁さえ漂う
手の届きそうな 小高い雑木林などは 最早
言うに及ばず
里見公園下の江戸川沿い それに
独特な雰囲気の河岸道
憂いを帯びた 対岸の遠い眺望や静けさ
都市部近郊の生活圏と 周りの自然との
入り交じる融合美が
その辺りに有りそうで おいそれとは出逢え無い
何にも例え難い 魅力に溢れている…
矢切の畑にて
この辺り一帯の情景に 更に一歩踏み込んで
想いを馳せれば
芸術的 且つ文学的な趣が 如何にしても
自らの感性を 強く刺激してしまい
然も 止むことは無い…
下矢切まで 範囲を広げて見たときに
日本人の切なる心情 と言うものについて
風物詩 そして空気感は勿論のこと
かつて 若き私が見ていた その情景を
出来るだけ 全体的に捉えながらも
細かで情緒的な部分をも 織り交ぜながら
味わおうとしたときに
大正浪漫以前の 私小説の一場面までをも
想像するに 難く無い…
明治の終わり
雑誌「ホトトギス」に発表された
あの染み渡る様な 甘ずっぱい様な
何とも言えない儚さが
日本人の優しさと もののあはれを呼び起こす
更には 自然の中の優し気なもの達からの
日本人の真心を綴ったメッセージともなる
そして その記憶は しばし 消えることが無い
野菊の墓 風景
私が 若かりし頃 上京し
そこから松戸市に向かい
上矢切 中矢切 下矢切と続くこの辺り一帯は
全体を称して 矢切と言うのだが
人々の生活圏の直ぐ側に位置していながら
自然の織り成す様々な造形や変化が多様に
存在する
元来の地形が織り成す綾 なのだろうか
嫌が上にも 想像力を掻き立てられる…
広がりのある江戸川には 桟橋があり
どこまでも浪漫チックな郷愁に 誘われる
延々と続く様な 遥かな河岸
気が付けば 向かいの東京が ひどく遠い
国府台には色々な学校があり
若者も多かった
南総里見氏所縁の 里見公園があり
老若男女が気軽に 足を運んだ
わざわざ出掛けても そこに価値を見出す人々も
多かった
そんな中 私は公園のすぐ近くに
住んでいたことも手伝い
人が少ない時などは 思い付いたら直ぐに
何時でも行くことが出来たし また好んで行った
在り来たりな言い方だが 木々が多く
そこいら中 緑一色
広葉樹が多いので 四季の移ろいも 趣深く味わ
うことが出来た
矢切方面にも時折 足を運ぶ…
明治 大正 昭和の初めの雰囲気を
彷彿させる 様々な意味に於いての彩を
味わいながら…
兎に角 余韻に浸った
当時はそれで 終わり
それが 全てだった…
矢切の渡し 渡し場付近
昨年 ひょんなことで 機会があり
この辺りを 尋ね歩くことが出来た
年甲斐も無く 嬉しくて胸が高鳴った
しかし それと同時に
何とも切なく 遣る瀬無い郷愁に
襲われたことは 紛れも無い事実である
目の前の情景がそうさせるのか
いや違う それだけではあるまい…
あの時からの 時空を超えた
私自身の想いが そうさせたのだと想う
矢切には当時 結核患者さんの為の
療養施設があり 今想えば…
空気が綺麗で 患者さんの心を癒せる様な
景色と雰囲気
それに「人を癒すのに相応しい気」が多分に
あったのだろう
そう 想える…
当時を 世相で語るとすれば
ちょうど売れ始まった時期で ラジオでよく流
ていた
特に深夜などは その儚げな曲調が似合っていた
それらは まるで
勿論 当時は 今から四十年以上も前
そんな発想など ある筈もない…
本当に風情のあるところに
住まわせて貰っていたのだと 今更ながら
深き感慨に 浸らざるを得なかった…
国府台城跡の里見公園が
松戸寄りの 下矢切は…
於ける
政夫と民子の別れの舞台
矢張り この一帯は 文学所縁の土地柄なのであろうか
政夫と民子はここ 「矢切の渡し」で
今生の別れとなる…
あの夏目漱石が 絶賛したと言う
「野菊の墓」
左千夫にとっては
小説としての 処女作でもあった
何気に…
政夫と民子は 今は共に
幸せなのかも 知れない…
国府台と矢切 その文学的浪漫に見る
日本人のこころ より…
古事記と日本の神話 それに言霊…
世界最勝のパワースポットより空を仰ぐ
この世の良さを 想い出し
あれこれと想いを巡らせ 心焦がし
また生まれてみたいと 想う
この世でしか学べないが 故に
再び生まれたいと 芯から願う時に
此度の人生での 気付きを決め
名前を決め 生まれる時を細かに設け
生まれる親元と その場所を選び
親たる魂の了承を 事前に得て 準備万端
再び満を辞して 生まれて来た私たち…
全ての要素に於いて
深い意味合いが あるにしても
日本人であれば 普通は
生まれるのは日本と 決めている
日本人に生まれること 自体
それに相応しいと 認められたこと
返す返すも 言うには及ばず…
然も その申し入れは
そもそもは紛れも無く 自らがしたこと
それにも拘らず 私たちは
自国の言葉を知る努力を しているだろうか
今一度 考えてみるのも 悪くはない
日本語は 穏やかな言の葉だけで
もののあはれ 情緒 奥ゆかしさ
儚さ 憂い 佇む 微睡む 焦がれる など
人の心情や心に 宿る
深い部分のものさえも簡潔に 醸し出し
完全な形での表現を 可能にし
余すこと無く 伝えることが出来る
この神業 日本語以外には
到底 出来そうに無い…
日本語にゼスチャーが不要なのは
そのことと直結している のかも知れない
言語に その繊細な力が備わらなければ
言葉の不足を補う為 否応無しに
身振り手振りが必要となること しきり
実例として よく知るのは
驚いた 感動した 筆舌に尽くし難い など
多様な事象が 全て
「ああ 何てこった」 「Oh! My God ‼︎」
と言う 同一表現
何とも無機質で「わびさび」が 感じられない
この感覚は ひょっとして 私だけだろうか…
些か長い前置きと なってしまったが
本題に移ろうと 想う
日本語 我が国の神話 それに言霊について
少しだけ趣くままに 述べてみたい
先ずは「ひ、ふ、み」…
「火、風、水」であり「一、二、三」である
人にはそれぞれ 今の魂の段階がある様で
その段階は さしずめ 十(とう)に分かれる
一から七まで 所謂
「ひ」から「な」までは「ひな」で
およそ人には 成っていない段階
ハと九 即ち「や」「ここ」は
「な」から抜け出した状態であり
あと一歩で 人となる状態のこと
十「と」で「一から十が成り」「一、十」
所謂「ひ、と」
ここで初めて「人」となる
また 視点を少し変えてみれば
「ひ、ふ、み」は「火、風、水」
「ひ」は「火」「自分で見立てる」
そして「感じ取る」ことであり
数霊的には「自力で掴み取る」の意
「自分で動きなさい」と言うこと
「ふ」は「風」で「氣の流れを良くし」
「風の通り道をつくる」ことであり
「み」は「水」で「滞りを無くす」
纏めれば「ひ、ふ、み」の意味するところ
「自分で見立て 感じ取ることを大切にし」
「氣の流れを良くし 滞りを無くす」の意
何気に 見えて来るのは
本来「ひ、ふ、み」
「火、風、水」までが一体となり 初めて
ひとつの意味を成すのではないか と言う
私の中での 単純にして気ままな ものがたり…
日本の言の葉は凄い…
最後に 元号について想うことを 少しだけ…
「昭和」について想う…
「昭」のへん「日」は陽が日の光が
溢れんばかりに降り注いでいる様 そのもの
つくりの「召」は「招く」であり
陽が日の光が燦々と降り注ぐことを 招く
と言う意で ある
「和」は「和の国」
所謂「倭の国、日本」そのものを 表す
つまり「昭和」とは
天の岩戸が開きっ放しの 状態であり
空気感が光り輝き 躍動感に溢れたのは
その為 かも知れない
そして「平成」とは…
「平」を鑑みる時
「一」は「い」 「ハ」は「は」で「わ」
「十」は「と」である
依って「平」は「い、わ、と」の意
そして「成」は そのまま「なる」
これを纏めれば
「平成」とは「いわとが なる」
つまり「岩戸が 完全に閉じている」様か…
昭和 平成 それぞれの 個性について
想いを馳せる時…
同じもの 同じ場所に触れても
何故に明るさや その空気感が
異なるのかの答えが その辺りに ある様だ
「古事記」の中に記されている
我が国の 神話…
そこには 全ての流れが著されており
事実その通りに ことは推移している様に 想う
どの時代が是で どの時代が否とか
その様なものは 勿論 あるはずも無く
全てが 大いなる流れの中に
欠くことの出来無いもの であることは確か…
それらのことに 想いを馳せる時
日本人として些か 感慨深いものがある
最後に謹んで お伝えいたします…
どの様な 困難な時節に 於かれましても
我が国日本の 全ての民を 国民目線で慈しみ
いつの時も どんな時も
変わらずに 愛おしんで下さった
何と御礼を申し上げて 良いのやら…
余りにも有り難く 感謝の念に堪えません
そして 日本人に生まれて
本当に良かったと しみじみ想います
この国の 穏やかなる平和を願うのは
勿論のこと…
両陛下の 益々の御健勝を
心より お祈り 申し上げます…
日本と言う国の浪漫 より…
世界最勝のパワースポットに感謝す
昭和三十ハ年 一年生の私が探し続けた本…
筆者三歳
私は 昭和三十一年に
東北地方の小さな町に生まれた
両親は 父親の職場に近い借家から
私が二歳のときに
昭和ノスタルジーの代名詞とも言える
木造一戸建ての町営住宅に引越しをした
そこには里山や小高い丘
清涼なる水が流れる幾つもの小川
なだらかな斜面には果樹畑や桑畑が
それに田んぼは農閑期ともなると
一面に草花が咲き乱れる別天地の様
家の前には手入れの行き届いた
赤松や様々な広葉樹が閑散と佇む雑木林
四季の移ろいを実感するのに
これほど恵まれたところは無かった…
田舎なので家から小学校までは
一キロ半ほどあり
低学年の頃は中々時間も要したし
幼さも手伝い飽きることも度々だった
私が通える小学校は二つあって
学区からすれば一キロほど離れた
私好みの 山裾にある小学校の筈だったが
家のある地域のそれ迄の慣習で
一キロ半離れた方へと通う様になった
何れにしても木造の校舎ではあったが…
昭和の木造校舎
前置きが長くなってしまった様だ
小学校に入って間も無く
私は何の縁あってか 一冊の本を探し始めた
きっかけは 心揺さぶる
ある歴史上の有名人を知りたいと言う想い
ただ一つ…
当時は今とは違い
色々な場所になど 図書館は無かった
必然 一年生の私は
小学校の学校図書室で探した
だが その本は幾ら探しても無い
然し 唯一
先生に尋ねることだけは
どうしても嫌だった
無いと言われた時に
残念で仕方がない様な気がして
聞くことが出来なかった
私は毎日学校図書室に出向き探した
当り前だが
誰にもその想いを
打ち明けてなど居なかった
そのせいもあり
先生も皆んなも
奇妙キテレツな目で
こちらを見る事が多くなっていた
私が探している本は「偉人伝」であった
秘めた想いを胸に
それから小学校ニ年迄の約一年近く
無い本を そして恐らくは…
絶対に無いであろう図書室で探した
ただ黙々と…
そしてこの頑固者にも
ようやく諦める日が来る
だが ただでは諦めたく無かった
そして探していた偉人に似た名前の
「偉人伝」を借りた
本は「石川啄木」の伝記であった…
啄木 像
図書室顧問の女の先生に
大笑いをされた
「 未だ この本は貴方には無理ですよ
なんで 石川啄木を借りようと思ったの
こんな難しい本 どうしても借りるの ?」
こちらからすれば
余計なお世話である
「借りる」とだけ言ったら
何か想うところがあった様である
貸してくれた…
今となっては
その本の事よりも
毎日 図書室に行っていた事
あの芳しい香りのする
木造の校舎 そして木製の本棚
沢山の本たちの
あの独特な凛とした鼻感覚と空気感
私を心配しながら
優しく たしなめてくれた女の先生
何かを感じ
私の意向を尊重してくれた
ひとりの女性
それら諸々の事ばかりが
記憶にこだまする…
今更ながら 私は
日本人に生まれて来て良かったと想う
未だ戦前の名残りだらけの
田舎の木造の 日本の小学校に通えて
本当に幸福だったと しみじみ想う…
誰が見ていなくとも
神様は 何時も見ていてくれたし
お陰で どんな時にも
自分に嘘を付かなくて済んだ
素直にそう 想う…
いやはや 危ない危ない…
うっかり言い忘れるところで あった
私が 諦めずに探していた
心揺さぶる偉人とは 一体
そして その伝記とは…
実は「石川五右衛門」の伝記であった
まさに そうだった…
因みに この本には
あれから 50年以上もの時を経て
今迄一度も お目に掛かってはいない…
昭和ノスタルジー
小学校の図書室での浪漫 より…
石川五右衛門 画