長岡郷 熱田神社に捧ぐ… チンチン電車 あのまったりとしたときを 忘れ無い
長岡郷 熱田神社の南脇を通り 国道四号線の架橋へと向かう電車
チンチン電車をご存知でしょうか…
あの路面電車のことを親しみを込め
そう呼びます
遅れること 二十一年
自分の祖父母が未だ若い時分の
明治四十一年から
所謂 私が生まれる遥か以前から…
地域に密着し親しまれ日頃の足として
老若男女を問わず
日常的に皆が利用をしました
私が幼い頃の
地元に於ける人々の足は
可笑しな話ですが 徒歩と自転車と
飽くまで路面電車が主流でありました
路面電車の通らないところを
路線バスが補うと言う形が此の辺りでは
何処の地域でも一般的でした
車がどんどん普及し
車社会が加速されるに付け
道路事情や交通事情 其れに効率を想う時
皆んなの目がどうしても
真新しく出て来たばかりの車に向くと言う
人の世の常も相まって
時代の風の流れに抗うこと無く…
路面電車は未だ需要がありながらも
自らの身を引かざるを得ない状況に
なって行ったのだと記憶しております
さっと乗って小刻みにある停留所で
気兼ね無く降りることが出来る
あの手軽さのみならず
乗り遅れて次の電車までの時間を
線路沿いに歩いていると
停留所で待っていれば乗れた筈の 次の電車が
規定以外の場所でも わざわざ止まってくれ
然も親切に乗っけてもくれました
そして其の様なことは
特に珍しいことでもありませんでした
真新しい車よりも何時も徒歩に寄り添い
全てに於いて利用者にぞんざいであった
当時の国鉄とは対称的に
人々の想いに手を伸ばし助けてくれる
あんなにも便利で人に優しい乗り物に
私が乗れることが
此の先もう二度と無いのだと想うに付け
何やら一抹の寂しさも湧いて来るのです
昭和三十年代初頭 長岡分岐点
路面電車について語るとき…
長岡分岐点は矢張り
チンチン電車の懐かしさの象徴と言えます
私が生まれた場所は旧伊達町(現 伊達市)
の中でも阿武隈川より西側の長岡郷
でありました
此の地 長岡郷の産土神は
甚だ片手落ちになるとは想いましたが
此の度は幼い私が頻繁に利用した
通園路線沿いに位置する「熱田神社」
について 簡単に述べさせて頂きます
長岡郷に所在する熱田神社を
一言で言うならば
由緒正しい神社であります
名古屋の「熱田神宮」の分霊を
あの東征の折に必勝祈願の見地から…
坂上田村麻呂が直々に此の地に祀りました
東征を終え 私の先祖が
此の伊達の地に土着するに当たり
田村麻呂から直接に
神器及び全ての治具を預けられ
此の神社の全てを託されたとのことでした
実際にも 私の一族が住む川東の地域には
東征よりも遥か後になってから
独自の産土神社が祀られておりました故
一族の氏神たる羽山(はやま)神社と並び
元より武家である一族の戦の守り神であった
私の家系の長が伊達長岡郷の方々に託し
現在の形に至っております
所謂 「熱田神社」は
私の父方の家系に於いて
氏神たる「羽山神社」と並ぶ
代々の「一族の守神」でありました
しかし皮肉なもので私は
元よりアテルイが相当に好きでした
人間はより深く学ぶ為に
相手の立場にも立たなければならない様です
「やってやられて」で陰陽のワンセット
「やられてやって」でまた陰陽のワンセット
です
様々な学びの中で 私は
真実はそうでは無いかも知れないと
想った瞬間も些かありましたが
此の陰陽の過程を踏まなければ
本当の意味での魂の糧にはなり得ないと
今では確信を持ち想っています
上手いことを言っている風に
想われがちにもなりましょうが
決して適当なことを言っている訳では
無いのです
伊達長岡郷 熱田神社
此の世に生まれると言うことは
増してや再生すると言う意味に於いては
誰しもがひとつの役柄を演じます
役割と言うよりは矢張り役柄と言った方が
直接的で腑に落ちることと想います
所謂 自分も相手も所詮キャストです
唯一 自らの選択肢として存在するものは…
前回やられて今回はやる側の
役柄(役回り)のときに
やり返しても陰陽のワンセット
やり返さない選択をしても
陰陽のワンセットと言う 理(ことわり)で
あります
そして 自分次第で 何方(どちら)の選択も
可能と言えます
役回りなのですから特にやり返したとしても
ノーペナルティですから
甚だ煩悩の刺激される部分とは
なりましょうが…
果たして そうなのでしょうか…
やり返さない選択をした場合には
自らの意思でお互いを向上させたと言う
紛れも無い事実が其処に残ります
仏法で言うところの解脱(げだつ)を
局所的に成し得たこととなるのです
其処には 自分さえ納得出来れば
些かのわだかまりも残らない筈です
ひとつの物事の学びをする為には
相手の立場 及び相手の立場であった家系に
生まれると言うことが
ほぼ必須であると言うことであれば
過去世に於ける相反する立場の家系
つまりは相手の子孫に生まれることがある
と言うことをも意味する訳です
それは決して珍しいことでは無く
魂の学びに於いては逆に
其れが普通の様でもあります
そうして魂は成長をするのでは
ないでしょうか
阿武隈川 右手西側が長岡郷 左手東側が伏黒 箱崎 向こうにはトトロの山こと 信夫山
我が家は私が二歳半のときに
阿武隈川西岸の長岡郷から
東岸の箱崎という地域に越しており
其れ以来長岡郷とは疎遠になっておりました
当時 我が家の地域には季節限定の施設も含め
幼稚園が皆無でした
そんな中 川西の長岡郷に唯一
開園したばかりのプロテスタント教会幼稚園
私は 通うこととなります
其の時に通園の為に利用したのが
毎日 柳原停留所から長岡分岐点までを
電車で往復しました
勿論 昔の子供のこと
其処は全て 自力での通園であり
想い出しただけでも…
当時に身包み吸い込まれて行く程に
懐かしさが込み上げて参ります
路面電車は この長岡分岐点で
分岐をしておりました
想い起こせば 何時も何輌かの電車が
車庫に停まっていたことを
ひとつの情景として なぞることが出来て
しまいます
其の頃は路面電車が
道路交通の花形でしたが
小学生になると頻繁な利用は無くなりました
そして 私が中学生の時 遂に
チンチン電車は廃止となります
失い難き生活に密着した
然も味わいのある乗り物であったと
今以て想っております
そもそも不人気で廃止になった訳でも無く
道路事情に配慮しての決断であったせいか
其のことが 尚更…
名残惜しさに拍車を掛けました
もしもは無いにせよ
昔日の電車たちが今も
あの姿で走っていたとしたならば…
例え余計に時間が掛かろうとも
電車が辿り着く場所であれば何処へでも
私は間違い無く…
チンチン電車を利用することでしょう
まったりとしたときを 今一度
心に焼き付けてみたいと想うのは
矢張り私が年齢を重ねたせいでしょうか…
チンチン電車の走る浪漫街道 より…
あの まったりとしたときを 忘れ無い
チンチン電車 車内風景
昭和三十年代初頭 長岡分岐点
昭和の初頭 伊達橋を走る電車