軽井沢浪漫…街の彩と塩沢湖畔に於ける木洩れ陽に想う
軽井沢を文字に綴ろうにも
その試みは困難を極め
簡単に扉を開いてはくれない
少なくとも私にはその様である
色で表そうと想っても
人も建物もそして自然も
その境目がはっきりしないほどに
あらゆるものたちが
絶妙に融合していると言わざるを得ない
それ自体の色が余りにも高度で
答えが出て来ない
然も見つけることさえ叶わない
彩についてもしかり
決まった加減など何処にも無い
人が関わることの出来るものに
限ったとしても
この地に関わった各人の
想い入れの歴史が
其処彼処 至るところに溢れており
軽井沢の持つ独自の色を語れば
それが一度塗りでは無く何度も
重ね塗りをしたり
下地から全て消し去って結局は
塗り直したり
色を微妙に調合し続け没頭する余り
その色合いを醸し出すのに
どうしたのかを忘れてしまい
また塗り直す
だから
此処軽井沢はその独特の色を彩を
他に漏らすことが無い
織り成す色が余りに深遠で
他に漏れることも無い
自らも再現することの叶わない
最早 手の届かない色だからである
街並みから外れ
少し足を踏み入れれば
自分よりか先輩の木々たちが
そして多くの記憶を持つ土たちが
よく来たねと話し掛けてくれる
それはまるで親愛なる
子どもか孫にでも寄り添う様に
軽井沢の歴史をずっと観て来た
自分たちの物語を
吐息に変えて囁き続ける
彼ら彼女らは間違い無く
この街並みよりも先輩なのである
だからこそ暖かく
人と街を見守ってくれている
軽井沢の歴史は
その街並みの歴史などと
微笑ましい勘違いはしないで欲しい
増してや文化の歴史などと
的外れなことは言わないだろう
このことについては
簡単には済ませたく無いものだから
ついつい拘ってしまう
数多の木々や草花
それを終の棲家とする生き物たち
水 空気 色 それに音…
それらの絶妙なマッチングが
奇跡の如く訪れ そして出逢い 融合し
誰にも真似の出来無い
軽井沢と言う
それ自体が風物詩となり得る
素敵なものが生まれた
この夢見心地な微睡みの中
塩沢湖まで足を延ばすとしよう…
今年十八になった娘が
未だ降りて来てくれる前に
妻と行ったペイネの美術館にも
湖畔の道を歩いて行きたい
子どもが生まれたなら一緒に
絵皿を買いに来ようと約束をしたが
結局は愛娘抜きとなってしまう様で
何気に可笑しい
塩沢湖畔は何時も憂いを帯び
大正 昭和前半に於ける
ノスタルジックな雰囲気を
然も全体に醸し出している
近頃 木立の中を歩くなどは
とても特別なこと
わざわざ何処かに出掛けて行って
そんな風な場所を探したり選んだり…
林業と言う掛け替えの無いものを
飽くまで商業ベースに乗せ
衰退させてしまった今の日本に於いては
かつて普通に存在した
雑木林や赤松林 竹林など
何処を見渡しても
探すことさえ容易では無い
二十数年前 私は
軽井沢の街並みを初めて訪れ
塩沢湖畔の憂いを帯びた姿に
惹かれ そして焦がれた…
風光明媚と言えばそれまでだが
湖畔と木立の佇まいが何とも絶妙で
其処には儚さと
憂いを帯びた浪漫がある
中でも陽が降り注ぐ時などは
木々の間から射し込む光が清涼で
清き天上のものの伝言を
まるで大いなる地上のものへ
届けんとしているかの様でもある
木洩れ陽は飽くまで柔らかく
あたかも湖面を清楚な絹で包むかの如く
微かにこの目を潤ませる
彼処に見えるのは
ペイネの像と茶色い館
ほんの少しだけ
湖畔の道を歩いてみたい…
あなたの色が 深すぎて
儚き憂いに この身は焦がる
森の教会 木立に惑う
何処か切ない 塩沢の湖畔
初秋の長月 浅間の里に…
彼女はもうすぐ 親もとを離れる
そして私は勿論 愛娘の為に
ペイネの皿を 買って帰る…
軽井沢浪漫紀行 哀愁の塩沢湖畔 より…
もう直ぐ六十の僕から五十八歳の君へ贈る 或る物語り
よっちゃん 今頃何してるかな
そう言えば もう五十八歳だっけね
ひと口に想い出なんて言うけれど
そんなに単純なものじゃないんだよ
あの頃 僕は…
たった一人の兄ちゃんを
突然に亡くしたばかりだったし
その後 僕のところに兄弟は
終ぞ来てくれず終いだったけどね
母ちゃんはつわりが酷かったから
ぼくを産んでくれただけで
自分としては精一杯だったらしいんだ
だから母ちゃんには本当に
感謝しているんだ…
よっちゃんも
弟のしょうじ君が生まれて来てくれる
未だずっと前だったからね
僕はね よっちゃん
近所のあんちゃん達とも
とても仲が良くて
あんちゃん達は 僕のことを
それは本当に可愛がってくれたんだ
だから あんちゃん達が
誘いに来てくれた時には何時も
正直とても迷ったんだ…
でもね 本当のこと言うと
三回に一回ぐらいは断っていたんだ
よっちゃんは未だ小さくて
皆んなと外では遊べなかったから
僕と一緒に よく絵を描いていたよね
僕が描いている時には何時も
そばで じっと見ていてくれた
身を乗り出したりも していたよね
そんな君は とても可愛かったんだ
紙はと言えば…
確か広告の裏を使ったりとか
それに そう わら半紙だったんだ
僕らの家はお互い
それほど裕福では無かったからね
それに よっちゃんは
僕の描いた絵を何故か…
大事にしまっていてくれたよね
始めの頃 僕は
とても びっくりしていたんだ
どうして僕の描いた絵を
そんなに大切にしてくれるのかって
何時も宝物の様に扱ってくれた…
でもね 僕にとっても
掛け替えのない素敵な宝物があるんだ
それはね よっちゃんが何時も
僕の描いた絵をしまっていてくれた
その時の…
よっちゃんと僕の
互いを大切にすると言う想いなんだよ…
その頃の僕たちのことは
今でも よく覚えているよ
僕はもう四つだったからね
でも君は未だ未だ小さかったから
覚えているだろうか…
だからその話を今 君にしてあげるよ…
僕は元々 絵が大好きで
大人になったなら
感動的な絵描きになりたかったんだ
一番好きな画家はミレーだったよ
「 晩鐘 」には とても焦がれた…
今よりも小さな三歳の時から
広告の裏とか…
余り好きでは無かったけど新聞紙に
鉛筆で絵を描いて遊んでいたんだ
よっちゃんが二歳になって
やっと遊べる様になった頃
僕も四歳になって
近所のあんちゃん達が
頻繁に誘いに来てくれてたんだ
僕は嬉しくて ついつい
遊びについて行ってしまうんだ
そんな時 小さな君は
未だ外には遊びに行けないので
家で静かに過ごしていたんだ
覚えているかい…
僕はあんちゃん達と遊ぶことが
それは大好きだったけど…
僕が絵を描いてあげると
君は満面の笑みで
何時もとても喜んでくれたんだ
勿論 あんちゃん達とでは無く
自分とだけ遊んでくれることが
何よりも嬉しかった様なんだ
僕はよっちゃんと同い年の二歳の時
二人兄弟の兄ちゃんを亡くしていたし
素直な君が可愛くて仕方がなかった
勿論 僕たちは
本当の兄弟の様に過ごしていた
君と遊んでいると
僕が描いた絵を大切にしてくれるので
とても自信がついたんだ…
僕たちは小学校までは
ずっとその延長だったんだ
でも何時までもそんな訳には
行くはずも無くてね…
中学や高校の頃はと言えば
そう 皆んなが普通に経験をする
ごく在り来たりな流れだったけどね
今はそれぞれの人生があり生活があり
会いたいと想う気持ちばかりで
何時も そのままに…
先日 君の母ちゃんが
回覧板を持って来てくれたんだ
たわいも無い話の中で
「 うちの よしいちは
今でも とっちゃんのこと
よく想い出してるよ 可笑しいない 」
そう言いつつ 大笑いをしながら
ほっこり帰って行った…
全然可笑しくないんだ
よっちゃん…
僕も時々想い出してるよ
君にとっての故郷は何処かな
何気に想うんだ…
故郷って言うものは
自分の心の中にあるんだってね
だからこそ色褪せること無く…
忘れ掛け 朧に霞んだものは
ややもすれば より鮮明なものとなって
皆んなの心の内に
生き続けるんじゃないのかな…
今度また 一緒に
何かやろうよ よっちゃん…
君と僕の昭和浪漫紀行 より…
さくら さくら…
桜にまつわる詩歌 散文
溢るるほどに 数多な歌
歌い継がれる 多様な名曲…
ひと春の 同じ場所に限れば
満月から新月まで さえも
咲き誇ること叶わぬ 束の間の桜花たち…
終ぞ 忘れ得ぬ存在として
我々日本人の心を 掴んで離さない
儚くも凛とした花たちは 雄々しく
今や 日本国内に限らず
その魅力 最たるものの様である
我々日本人に とっての
桜に対する想いを 鑑みる時…
単に視覚的なものに のみ
心惹かれている訳でも無い様に 想える
物心付く 幼い頃から
梅の開花や 明るい空気の色に
春の訪れを 知り…
人知れず蕾を膨らます 桜に
控えめで奥ゆかしいと和み また共感し
その膨らみ具合に 心焦がし
今年の見頃はいつ頃 などと
余計なことにまで 想いを巡らす
然もどの桜にも 穏やかな眼差しで
知らず知らずに 心中語り掛けてしまう
花が満開になる 嬉しさに
本当は思わず 桜木を抱き締めたくとも
控えめで恥じらう 日本人は
そんなことを する筈も無く
増してや 言葉にすることも無い…
桜の花は 咲き誇る時も散った後も
紛れも無く その本質に変わりは無い
それを古(いにしえ)より知る 我々日本人
その根幹に 脈々と紡ぎ流れている
儚くも強き「潔く散ると言う美学」…
言葉で表そうにも
日本語の持つ「言の葉」でなければ
叶うことの無い「もののあはれ」の数々
白虎隊士中弐番隊 そして神風特別攻撃隊
彼らの心中に 想いを馳せる時
その根底に脈打つ 普遍的なものが見える
今生に培ったもの 全てを捧げ
ひとの為に尽くし 自らの人生に幕を引く
そこには狡猾さや
邪(よこしま)な心は 一切存在しない
清潔で穏やかな 日本の風土に育まれた
桜の花と 日本人の心…
さしずめ 互いにとっての
弛まぬ「かげおくり」なのかも知れない
いのち短し 恋せよ乙女
我が胸焦がす 命の花よ
ああ何時までも 忘れてくれるな
君らの幸せ 願って止まぬと
かけがえのない 命の花よ
幾とせのちに 新たな花を
溢るるほどに 咲かせて欲しい
君よ 花よ 永遠(とわ)に …
日本の国に咲き誇る浪漫
潔きものたち へ…
昭和浪漫…時代の息吹について 想うこと
昭和三十年代初頭のこと…
私が生まれ そして育った
東北の地 福島県北部に於いては
地方の田舎町とは言え
単に一過性のものとは異なった
賑やかな街場が彼方此方(あちこち)
にありました
何処(どこ)へ行っても地場に
独自の産業がしっかりと根付き
増してや外部から来た商店なども無く
地元の人間が営む店舗や施設が
弛まぬ人の繋がりと共に穏やかに
そして賑やかに軒を並べておりました
然も養蚕業を始めとする農業が
未だ未だ活発に且つ安定しておりましたし
それら第一次産業が
あらゆる地元産業の活躍の礎を
十分に支え切れていた様に想います
農作物に目をやれば
飽くまで基本は稲作であり
米価審議会なるものが存在し
稲作農家のやり甲斐を国が担保し
またそのことが当たり前のこととして
皆んなの意識の中に定着しておりました
昭和ノスタルジーの代名詞とも言える
木造一戸建て公営住宅が
其処彼処(そこかしこ)に現れ
取り巻く自然との多様なバランスも
極めて良好だったと記憶しております
次第に土地の有効活用からか
コンクリート工法の利便性からか
更に核家族化に拍車が掛かったからなのか
何れにしても
俗に言うハーモニカ住宅なるものが
あっと言う間に公営住宅の主流となり
木造公営住宅が増えて行くことは
それ以降 二度とはありませんでした…
不思議なもので
木造と言うものは時を重ねても
ただ単に古くなって行く訳でも無く
逆に周りの風物に溶け込み
時空に紛れて馴染んで行く様な
素材が持つ 自然に帰結すべく原点が
そもそも備わっているのかも知れません
私が二歳半ばの時 我が家は
それまでの街場の借家から
前述の一戸建木造住宅に移りますが
一度は抽選に落ちると言う…
当時に於いては 当選より遥か狭き門
栄えある落選に 当選してしまいました
失礼しました…
少々 冗談が過ぎた様です
しかし一棟 キャンセル空きが出た為
繰り上げ当選で急遽入居の運びとなりました
越した先は偶々だったのでしょうが
雑木林が広がる自然のど真ん中でしたから
三十棟にも満たない木造住宅は
とっぷりと木立の中に紛れてしまい
木と言う素材も相まって
周りの風物に溶け込むことは
何ら難しいことではありませんでした
周りにある里山たちは
なだらかで 宛(さなが)ら丘の延長の様
民家から里山までの地形は
緩やかな斜面の果樹畑となっており
絵本の中の挿絵の如くそれは明媚なものでした
未だ未だ農業が盛んな時節
果樹畑 野菜畑 桑畑などには人の手が入り
一年を通して何時も整えられ
季節折々の綺麗な状態が保たれた情景には
今更ながら人の息吹を感じることしきりです
稲作農家も未だ未だ多く
農閑期の田んぼは広い草原と化し
春には草花が数多咲き乱れ
寝転がって遊べる子供たちの憩いの場
近くには至る所に小川が走り
兎に角 水が清流で嬉しい程に美しく
毎春始めに 決まって驚いていた
懐かしい記憶さえ残っております
農薬散布が普及する前は
魚は勿論 多様な生き物たちが
時には サンショウウオさえ泳いでおり
トンボにバッタ 夏には蛍も生息し
ごく普通に色んな生き物を見掛けることが
四季を通じての贅沢な風物詩でありました
自宅の前には雑木林が広がり
赤松の周りには様々な広葉樹が植生し
四季の移ろいを肌で感じながら
感覚的に心地よく暮らせたと想っております
国の立場を決定する者たちに限らず
内外の金融資本家たちの思惑も絡む中…
日本の農林業と言うものが
結果的に急激に衰退してしまったことは
紛れも無い事実であり残念でなりません
私が過ごした少年時代 昭和三十年代は
これから訪れるであろう
幸せな社会をしっかりと視野に入れ
皆んなが それを疑うこと無く心焦がし
自分の誠実な頑張りは社会貢献となり
家族の幸せにも繋がると信じておりました
我が国日本の戦後復興の要因を
色々と列挙される方もおいででしょうが
矢張り 最たる要因は飽くまで人
我々日本人の強い想いと希望であったと…
もう直ぐ還暦の私は
確信を持って且つ 甚だ冷静に想っております
自分が子供だった時代は何故に
皆んなが楽しげに そして前向きに
様々な周りの風物詩にも関わりながら
週休一日の疲れを笑い飛ばしながら
目の前の日々に没頭出来たのでしょうか
人が希望を持つと言うことが
世の中にとって どれ程大切なことなのか
今の時代にこそ本当は
とても重要な事柄ではないでしょうか…
日本人ひとりひとりの
明るく前向きな強い想いが
物事を具現化する波動となり
更に言えば肯定のエネルギーとなり
小さな奇跡の積み重ねが日常的に
連鎖し起きていたのかも知れません
だからこそ世の中に人々の想いが溢れ
空気感が光り輝いていたのだと想います
今でもあの時節の空気感を
忘れ得ぬ私にとってのキーワードは
何と言っても「 時代の息吹 」であります
そして息吹こそは「 生命力 」であり
心に「 浪漫 」を招くことの出来る
言わば 根本ではないかと想っております
希望に満ちた戦後昭和の時を
自らの実体験に基づき想いを巡らす時
今の時代に生まれたことの意味を
いたずらに見過ごしてしまうこと無く
弛まず見詰め続けて行きたいと想いつつ
そろそろ 今の時に戻りたいと想います…
私の昭和浪漫紀行 より…
雪が…出羽最上地方に於ける 夢心地な郷愁
近くて遠い場所があります
距離と時間との兼ね合いにより
簡単に言ってしまえば
アクセスの都合で遠く感じるものと
別にそれ程遠くも無く
行くのに手間が掛かる訳でも無いが
その地を訪れることに
自らの中に辛い想い出があるとか
何か心に引っ掛かるものがあり
ずっと足が遠のいたままでいるなど
心情的なものに起因する場合とが
ある様に想います
私にとっての山形盆地は
単純に前者の事情によるものでした
山形自動車道が開通して
私の住む福島県北部からのアクセスが
まるで魔法の様に一気に良くなりました
それ以前はと言えば…
自宅から飯坂温泉を経由し
栗子国際スキー場脇を通り米沢へ
そこから一挙山形盆地へ向かうことが
ごくごく一般的でありました
別ルートとしては
福島と宮城の県境に当たる
蔵王連峰南麓を通り高畠へ抜ける道も
旧幹線道路としてはありましたが
昔は道幅が狭く車の通行路としては
中々難儀と言う他はありませんでした
山形自動車道が通り
東北自動車道村田ジャンクションから
一気に山形盆地を目指せる様になり
それ以降 私は 月山 鳥海山
機会があれば訪れる様になりました
そして何度も訪れる内に
この辺りの土地柄に対して何故か
不思議な感情が芽生えて来ておりました
雪国特有の あの…
空気が引き締まる様な寒い節に限らず
暖かい節 暑い節に於いても
この見方が変わることはありませんでした
始めの頃の感覚は唯ぼんやりとした
それはかなり漠然としたものでしたが
土地が全体的に浄化されている様な
必然 気持ちの良い凜とした様な
妙な感覚に何時も襲われておりました
初めの頃は朧げながら
これは雪国特有の積雪により
汚れが落とされ流され土が引き締まり
春の訪れと共に一気に
その厳しさから解き放たれた
土 空気 水を含めた
あらゆる生きとし生けるものたちが
その生命力を爆発させる
ある種のエネルギーをより具現化する
さしずめ量子力学で言うところの
波動が高まると言うことでしょうか…
雪国特有の共通する現象と想っておりました
しかし もしそうであれば
雪国どこに行っても大なり小なり
その感覚は受け取れるはずなのですが
私の経験上お伝えするならば
この出羽最上地方で感ずるものを
他所に於いて感ずることは
恐らくは余り無かった様に想います
ここ出羽最上地方に多くの秀句を残せた
と言う紛れも無い事実の真意は…
たまたまこの地に滞在した際の
芭蕉の体調が良かった訳でも
頭と感性が特に冴え渡っていた
と言う訳でも無かった様に想います
秀句を残せるだけの多岐に渡る
勿論 視覚的な情景だけに留まらない
多次元に於ける心と魂を揺さぶる
深い部分でのモチーフが
数多存在していたのではないでしょうか
今から二十五年程前…
スタジオジブリの劇場版アニメに
「 おもひでぽろぽろ 」
と言う素敵な作品がありました
画をみているだけで満たされる位に
各場面の情景が澄み切って美しく
儚げな感傷を帯びている様な
それ程に美しい作品でありました
何とも切ない程に憂いを帯びた
最早この世のものでは無いものに焦がれ
魂ごと吸い込まれそうな自分が
紛れも無く そこに存在しておりました
前述の通りアクセスが良くなり
山形盆地を訪れるほどに
季節に関係なく常に土地も空気感も
凛として引き締まり…
その上心穏やかなることにも
徐々にですが気付いて参りました
加持祈祷 口寄せなどが
主流だった一世代前 二世代前までの
ある意味曖昧な時節の残像が
如何せん 未だ未だ残っていた当時…
宇宙と言う神の意志の計らいか
より正確に過去 現在 未来の事柄と
それらの意味について世に伝えるべく
曖昧では無い標を示すべく
確かに存在している者たちが
徐々に世に輩出されて来ていることが
未だ未だ認識されていない時代のこと
はっきりとした説明は付かないものの
私には その答えが解り掛けておりました
山形盆地の位置する出羽最上地方には
いにしえよりの守り神が存在しておりました
日本人ならご存知かと想いますが
あの出羽の神々であります
神々は出羽三山に鎮座され
出羽最上地方の安らかなることを
そして日本の国の安らかなることを
ずっと願って来られました
因みに月山は「 過去の山 」
羽黒山は 「 現在の山 」
湯殿山は 「 未来の山 」であり
三山の参拝は即ち
死と再生を意味する訳でもあります
また一風変わった別の見方もあり
これは出羽三山についてと言うよりも
出羽山地全体についての捉え方の様です
月山を 「 死の山 」
鳥海山を 「 生の山 」
そして湯殿山を 「 恋の山 」
とするものであります
何れにしても
伝えようとしていることが
共通していることに感慨も一塩です
出羽最上地方に於ける
あの身が引き締まる様な清潔感と
穏やかなる安堵感とは
出羽の神々の弛まぬ篤き守護と
それに依るところの人々の心根では
ないかと想っております…
そして矢張り 雪…
雨に依る浄化もさることながら
何分 雪に依るそれは最大のものであり
最大の浄化をもたらします
降雪地域に於ける雪があらゆるものを
浄化し新たなるものを再生することは
言うまでもありませんが
それは遥か以前より永きに渡り
繰り返し営まれて来たこと
近年になり増えて来た現象…
掟破りの時期に まさかと思う地域に
紛れも無く雪が降ると言うことであります
これは果たして
地球温暖化に依る異常気象なのでしょうか
如何せん そんな訳はありません
誰が言ったのでしょうか…
地球は温暖化になど なってはいません
寧ろ寒冷化の一途を辿っています
地球は生き物なのです
そして何時も一定の条件で
私たちの為に存在する訳ではありません
ですから寒冷化の一途を辿ることも
生き物としての地球にとっては
しごく当たり前のことなのです
生命体としての地球にとって必要だから
その様な現象が起こるだけのことなのです
まるで天動説の時代に
何時迄も浸り切るどころか
事あるごとに振り出しに戻っていては
矢張り人間は駄目なのだと想います
何時の間にか人間は
また元の木阿弥に帰ってしまうのですから
何とも苦笑に絶えません…
神々も 我々人間を守ると言うことが
如何に大変かと言うことでもあります
大変申し訳無く 陳謝するしかありません
話を戻させて頂きます…
時期 場所 その量に於いて
掟破りと私たちが感じる雪について
実は掟破りでも何でも無い
地球からの 宇宙からの そして神々からの
貴重な贈り物です…
その時期にその地域に
浄化が必要だからこそ降るのであって
だからこそピンポイントで降るのであって
人間が勝手に作り上げた公式に
当てはまらないものは全て異常気象と
決めつけてしまうことこそ
そもそも如何なものでしょうか…
勿論 雨についても同様です
山形盆地をはじめとする
あの出羽最上地方に触れる時…
私は つくづく想うことがあります
かつて スタジオジブリが
この地域を題材にしたアニメ作品を
制作するにあたり
モチーフをより美しく企画するとか
観客により大きな感動を与える為に
意図して感動的な画を作り上げるとか
そんなことは一切していないと言う
紛れも無い事実であります
百聞は一見に如かず
実際の出羽最上地方の情景をご覧になれば
その答えは直ぐに出るはずです
あくまで素材をそのままに
ジブリのもつ類稀なる技術をもって
出羽最上地方の情景と言う
実際に美しいモチーフを
忠実に再現したに他なりません
逆にジブリだからこそ
ここまで忠実に再現し得た
ある意味 偉業なのかも知れません
そして山形盆地が忠実に
再現された画が何故にあんなにも美しく
言葉を失うほどのもの なのか…
私の住む福島県の最北端に近い地域は
戦後復興の波は緩慢であり
ややもすれば都市部の戦前の
更にひと昔前の様相 さながら…
それでも 矢継ぎ早に押し寄せる
テレビを通しての情報の過多により
何時しか欧米ナイズされ歯止めが効かず…
それなりに発展し便利になって行くのが
悪いことだとは決して思いませんが
古き良き沢山のものを捨てながら
商業的な目先の便利さに
余りにも固執し拘り過ぎた結果が
今になって歪みとなり進退極まっている
その様に想えて仕方がありません
あの時代 私の住む東北本線沿線は
どうしても準備が整う以前に
商業の波が有無を言わさずに押し寄せ
振り返ってみても…
人口があり商業ベースに乗れる地域は
それが例え田舎であろうが
営利至上主義の金融資本から逃れる術は
どう足掻いても無かったと言うことです
奥羽本線沿線の山形盆地を見た時に
私はあることを感ぜずにはいられません
戦後復興が遅くなった部分が
少しは有ったのかも知れませんが
私の育った地域もその辺は大差など無く
当時に限って言えば
交通の便が少しだけ違ったかも知れない
と言う程度のものだと想っております
そして見方を変えた時…
奥羽本線沿線の山形路 出羽最上地方は
本当は守られていたのではないかと言う
私なりの発想であり また見解であります
幼少期よりずっと東北の地で育った私は
不便さも 便利さも 不要な便利さについても
失われた古き良きものたちが
二度と再生出来ない現実とその虚無感も
全てこの目で見届け 肌で感じて来ました
昭和四十年代 五十年代に於ける
商業本位な金融資本があれ程では無く
もっと穏やかな時代の流れであったなら
修正出来たものも数多あった様な気がします
出羽の神々は出羽最上地方を
本当は長い目でしっかりと守っていた
その様に 私には想えてなりません
あの凛として清潔感溢れ
穏やかなる この地域の未来も
神々は これからもずっと
見据えてくれている ことでしょう
それと同時に…
古き良き日本の良さが足早に消えつつある
今の世の中に於いて
近頃の不思議な世相で言えば
除夜の鐘をどうするとか
正月の餅つきをどうするとか
日本人は全く迷惑に想っておりませんが
困ったものです…
誰が考え出したことなのか
まるで 取って付けた様な可笑しな話です
あの「 おもひでぽろぽろ 」
の画を そのままに…
まるで天国をループしているかの様な
吸い込まれて行く様な情景を
悠久の山形路から
何時までも 失って欲しくは無いと
切に願わずには いられません…
出羽の神々がもたらす
夢心地な郷愁と言う名の浪漫 より…
人の道理を通した長岡藩と河合継之助 同じ時代に我が国を蝕んだ幕末の闇とは…
人としての道理を通す故の
飯盛山の鬼「白虎隊士中弐番隊」の悲劇で
今尚人々の心を揺さぶる
皆様 先刻ご存知かとは想います
母成から雪崩れ込む大軍とは別に
越後方面から会津盆地を目指していた
新政府軍の別の大隊が有りました
それに対し
筋道が通らないと言い切り
毅然として恭順を断り 徹底抗戦に出た
北越の一藩が有りました
長岡藩です…
大羽越列藩同盟に入っていながら
危ういと思うや否や
真っ先に寝返った秋田 それと米沢…
そんな時世にありながらも
最後まで筋道に拘り通した長岡…
長岡藩は命を賭して
人としての道理を貫いた訳です
それと同時に
幕末の動乱期に於いて
日本人が今尚 知らないままにいる
歴史の闇が数多あるのです
そもそも戊辰戦争とは
何の為に起こった出来事だったのか
日本人以外が
どの様に関わっていたのかなど
想いは募るばかりです
時は戊辰…
新政府軍の無理難題に対し毅然と立ち向かう
武士道満ちたる北越の一藩が有りました
長岡藩です
石高から見れば七万四千の小藩
しかしながら これは飽くまで見掛けであり
藩の多岐に渡る努力に依って内高は十四万石
その実態は中藩でありました
長岡藩が突入した際の軍事総督だったのが
家老上席の河合継之助でした
元来 継之助は 優れた発想と行動力
それに武士道に満ちたる
折り目正しさを兼ね備えておりました
京都詰めや江戸詰めを歴任するも
「ならぬものは ならぬ」と言う気概が
いっとき浮世では災いをし
一旦は藩へ帰る事となります
帰藩してからの彼は
持ち前の様々な能力を発揮します
為替の動きや差異に鑑み
藩に大きな利益を齎(もたら)したり
財政改革や兵制改革それに民への政
全てに精通しており
藩の為に如何無く
その力を注ぎ込んだのでした
河合継之助(かあい つぎのすけ)
1,827(文政10)年 1月27日 生
1,868(慶応 4) 年 8月16日 死没
享年 41
江戸時代末期の武士で
越後長岡藩 牧野家の家臣
新政府軍への恭順を主張していた
世襲家老主座の稲垣茂光は
いざ交戦となる直前に出奔しましたが
世襲家老次座の山本帯刀や
着座家老の三間氏は
終始 継之助に協力をしてくれました
こうした中
継之助は名実共に
開戦の全権を掌握することとなります
壮絶を極めました
理由はただ一つ
長岡藩が強かったからでした
しかし多勢に無勢
武力と言うより武器力の差如何ともし難く
新政府軍の勝利に終わります
そして 戦局は会津へと移って行くことと
なるのです
戦闘で足に弾を受けた継之助でしたが
諦めることは無く
形勢を挽回すべく気丈にも
会津への援軍に向かう道すがら
破傷風が原因で無念の死を遂げます
河合ほどの人物です…
この戊辰の役 即ち戊辰戦争自体が
日本の国には何の利益も齎さないことや
姿を隠し何食わぬ顔で
日本人同士の殺し合いを眺めている
武士道の対局にいる者たちの存在を
知っていたのだと想います
だからこそ河合は 何としても
武士としての 人としての
筋道を通したかったのでしょう
因みにではありますが
戊辰戦争で使われた
数多の鉄砲や大砲等は
一体何処から持って来た物だったのか…
今の我が国の人々は考えもしません
しかし その実態について
残念とばかり言ってはいられません
伝えなければ…
明確な理由無く始まり
戊辰戦争が本格化する ほんの少し前に
予定通りに終わった とある戦争が有りました
幾多の人々が亡くなった
あの南北戦争(なんぼくせんそう)です…
奴隷解放を旗印に
北軍が決起をしたと言うこと自体
そもそも本当の理由では無く
そのベールの下に隠れた本当の理由が
どうやら ある様です…
今回は 直接的日本国内の出来事に限り
述べさせて頂いており
詳細は 皆さんご自身の目で
辿ってみられるのも宜しいかと 想います
因みに当の北米人たちすら 今尚…
南北戦争が本当は何故起こったのか
その切っ掛けすら釈然とせず
相も変わらず
訳が分から無いままになっているのです
南北戦争が終わっても武器は残ります
金の亡者は これを見逃しはしません
まさに 武士道の対局です…
課長クラスとでも言いましょうか
トーマス・グラバーと言う人物が
金融資本の命を受け 日本に渡り
知る程に謎多き 坂本龍馬と言う
土佐藩の脱藩浪士を手足に使います
坂本は薩長同盟の立役者と煽てられましたが
実際の薩長同盟は
もっと高い次元で予め成立しておりました
龍馬びいきの方には
大変申し訳無いのですが
そもそも我々が
当たり前に信じて疑わ無い
写真に写る龍馬の真偽 をも含め
これが生々しい歴史であり
歯に絹を着せぬ本当の歴史なのです
そう言う私も実は
遥か遠い過去には龍馬びいきでありました
グラバーは南北戦争で残った武器
のみならず
欧州列強からも武器を調達しました
軍需産業は莫大な富を欧米に齎(もたら)し
欧米列強の植民地主義を
飛躍的に加速させて行くこととなります
また グラバーは
その先にある更なる目的
所謂 黄金の国ジパングに
大量に存在する金塊の奪取を鑑み
その為の布石としての
明治維新を達成させるべく
高性能な新式の武器を新政府軍に
旧式の武器は幕府軍に
それぞれ法外な値で売り付けました
そして気の利いた解釈に於いては
次の様な説もある様です…
取り返しの付かない所まで行き着いた後に
グラバーに騙されていたことを悟った龍馬は
自らを悔い 自戒の意味も込め
船中八策を認(したた)めることとなる
良心の呵責の名の下に…
そして その後程なくして
坂本龍馬はこの世を去らねばならなかった
確かに もっともらしく
上手く纏まった説ではありますが…
そして仮にそうであれば
話はひとつの終焉を見
龍馬の人としての名誉も多少は回復し
万事めでたし…
程良い落し処と相成るのでしょうが…
そうは問屋が卸さない様にも想えて来ます
若しも龍馬は暗殺などされてはいない
としたならば どうでしょうか…
新政府の要職たちが…
揃って英国を訪問したことの意味も
朧げながら見えても来ますし
英国から米国に渡り
米国でその晩年を過ごした
とある日本人がいたことの説明も付きます
それに多くの日本人が知らされていない
藤原氏や長宗我部氏など
白人とみまもう
彫りの深い顔立ちの日本人たちが
いにしえより数多いたこと…
長曾我部氏の根本拠点は土佐
その上 坂本龍馬は土佐の脱藩浪士
本来 龍馬がはっきりした顔立ちでも
何ら可笑しくはありません
幕末の闇は深く…
幾重にもフェイクが絡み付き
我々日本人の判断を困難にしようとします
そんな訳も手伝い…
本当の歴史を知ら無い日本人が
余りにも多過ぎる結果となったのでしょうか
逆に あの「カミカゼ」を尊敬して止まない
海外の人々は
そのことについて深い憂いを持って下さいます
悲しいかな 最早…
戦前と戦後の日本人は
全く別の民族なのでしょうか
否 そうではありません
我々日本人は もう一度
心の眼を開かなくては…
そんなことを想う 初冬の昼下がりです
幕末に於ける
人の道理と言う浪漫について
想いを馳せる とき…
国府台…若き日の私の浪漫
半月ほど前になる
何時もの想い付きで
朝より夕方まで
時間の許す限りゆったりと
歩いてみたかった…
四十年前に初めて上京した折
国府台の地に居を構えたこともあり
何かと 思い入れは深い
若いなりに随分と
気に入った土地柄ではあったが
若さゆえ…
日々の楽しみに心奪われ
今の自分が想うほどには
味わい深く満喫すること 叶わず
その意味に於いて
観るべきものを
なおざりにしてしまった想いが
存外 沢山残っている…
京成電鉄の路線バスが出てはいるが
国府台の丘陵地を
徒歩で ゆったりと 登ってみたかった
また 歩いてみたかった
市川真間を通り
比較的閑静な住宅地を眺める
京成線の踏切 昔ながらの学校
小さな神社の祠
万葉にも出て来る
今では典型的な都市河川
いにしえの真間川に掛かる小さな橋
それに 混み入った
今現在の街並に紛れてしまい
見上げても分かりづらい様だが
法華経の寺院が
丘陵地の高台手前側にあり
その参道が 市川駅辺りから真っ直ぐに
伸びている…
幅も高さも そして傾斜も豊かな
大柄な階段を登って行き
振り返ると
まるで 何処までも続く様な参道を
実感として理解することが容易である
寺社仏閣の例に漏れず
綺麗に掃除の行き届いた境内
日本人ならではの心配りと
内外面のしっかりとした美意識の高さを
今更ながら 思い知らされる
木漏れ日の中…
緑がやたら豊富で
ノスタルジックな建物ひしめく
何とも素敵な景観の
四年制大学のキャンパスを通り
市川松戸街道に出る
目の前に二十階はあろう
センスの良い 大柄なタワーが現れ
そのモダンな佇まいの
余りの立派さに驚き
忘れ掛けていた
時の流れを つくづくと感じ入る
歴史のある 女子大である…
当時の校舎もそのままに
新旧が 綺麗に融合している様でもある
そして建物の向こう側には
大いなる江戸川海岸が
丘陵地の河岸道路越しに広がっている
松戸街道を 公園へ向かって歩く
交通量はやたら多いのだが
道路は勿論のこと
歩道が良く整備されており
周りの景色を楽しみながら
ゆったりと歩くことが 苦にならない
右手には当時
国立国府台病院だった建物が現れる
戦前の落ち着いた雰囲気を醸し出す
かつての建物は 既に無くなっており
真新しく また美しく機能的な建造物に
様変わりをしていた
四十年も経てばこの時代の常
当たり前ではあろうが…
気分はまさに 浦島太郎である
幹線道路より西側
公園に向かう路へと入って行く
桜の木々が大分
年を重ね 本当に歳を重ね…
あの若かった木立をも
懐かしむ心持ちに なってしまう
あと数年過ぎたならば
そこには 見事な桜並木の回廊が
姿を現し その命を紡ぎ
皆んなの眼を癒し
心さえ穏やかに 整えてくれるだろう
おっつけ 里見公園に着く…
この地は 滝沢馬琴の著
南総里見八犬伝の舞台である
小さな公園ではあるが
大きさでは語り尽くせない
不思議な奥行きが この地にはある
昔から そうだった…
南総里見氏が治めていた
その謂れを 前面に出すことは無い
しかし 花の絨毯と噴水広場から
なだらかに登れば 至る所に石垣があり
飽くまで城址であることを
しみじみ気付かされる…
普段の顔は
人々の憩いの場として
四季を通しての花の回廊として
様々な役割を果たしている
雰囲気はと言えば
予てよりそうであったが
二人で訪れても 家族で連れ立っても
勿論 一人で ゆったり時を刻むにしても
何ら違和感の無い
素敵な雰囲気に満ち溢れている
里見氏が治めていた いにしえの時
その空気の流れが淀み無く 恐らくは
ここ国府台の地が
民に穏やかなところであったことを
伺い知ることが出来る
然も当時のその優しき波動が
時空を遡り 偲ばれる様でもある
そして しっかりと
正に今このとき いにしえの地を踏み
しめながら歩いた
里見家所縁の沢山の人々がおり
賑やかにそして忙しく 動き回っていた
歓迎してくれているのか
忙しい想いをさせて 甚だ申し訳無い…
川の向こうに東京の下町が広がる
高さ六百数十メートルの
すぐそこに佇んでいる
昭和五十年代初頭には
想像すら出来なかった未来図が
目の前に広がっている
穏やかな時間が流れる…
かつての国府台城の佇まいさえ
容易に目の前に描けてしまうのが
何とも懐かしく…
皆んなの嬉しそうな表情もまた
時空の中に 確と浮かび上がって来る
木々の中 まったりと高台を降り
薔薇園を眺めながら暫しくつろぐ
このベンチに腰を下ろす時
本当に 単細胞な自分が可笑しくなる
何時も或るひとつのことを想い
それを見詰め…
そして眼を閉じる…
四十年前この
国府台の地を訪れ 暮らした
大好きなこの公園で
たっぷりとした時間を数多頂いた
上京して早々には桜の節
少し過ぎれば藤棚の花が
驚くほどに満開だった あの嬉しさ
何時も巡る想いは
お決まりの 穏やかな絵巻で…
そして最後は決まって うつらうつら
そう 決まって うつらうつら…
若い頃の様にとは言え
随分と立派になったベンチに
腰を下ろし
当時のこの辺りの
かの風景を…
ず〜っと想い巡らしました
胸が熱く…
もうすぐ 藤の花が満開に
目を閉じ
うつら うつら…
若き日の我を 愛おしむ
国府台に於ける
若き日の私の浪漫 より…