昭和三十ハ年 一年生の私が探し続けた本…
筆者三歳
私は 昭和三十一年に
東北地方の小さな町に生まれた
両親は 父親の職場に近い借家から
私が二歳のときに
昭和ノスタルジーの代名詞とも言える
木造一戸建ての町営住宅に引越しをした
そこには里山や小高い丘
清涼なる水が流れる幾つもの小川
なだらかな斜面には果樹畑や桑畑が
それに田んぼは農閑期ともなると
一面に草花が咲き乱れる別天地の様
家の前には手入れの行き届いた
赤松や様々な広葉樹が閑散と佇む雑木林
四季の移ろいを実感するのに
これほど恵まれたところは無かった…
田舎なので家から小学校までは
一キロ半ほどあり
低学年の頃は中々時間も要したし
幼さも手伝い飽きることも度々だった
私が通える小学校は二つあって
学区からすれば一キロほど離れた
私好みの 山裾にある小学校の筈だったが
家のある地域のそれ迄の慣習で
一キロ半離れた方へと通う様になった
何れにしても木造の校舎ではあったが…
昭和の木造校舎
前置きが長くなってしまった様だ
小学校に入って間も無く
私は何の縁あってか 一冊の本を探し始めた
きっかけは 心揺さぶる
ある歴史上の有名人を知りたいと言う想い
ただ一つ…
当時は今とは違い
色々な場所になど 図書館は無かった
必然 一年生の私は
小学校の学校図書室で探した
だが その本は幾ら探しても無い
然し 唯一
先生に尋ねることだけは
どうしても嫌だった
無いと言われた時に
残念で仕方がない様な気がして
聞くことが出来なかった
私は毎日学校図書室に出向き探した
当り前だが
誰にもその想いを
打ち明けてなど居なかった
そのせいもあり
先生も皆んなも
奇妙キテレツな目で
こちらを見る事が多くなっていた
私が探している本は「偉人伝」であった
秘めた想いを胸に
それから小学校ニ年迄の約一年近く
無い本を そして恐らくは…
絶対に無いであろう図書室で探した
ただ黙々と…
そしてこの頑固者にも
ようやく諦める日が来る
だが ただでは諦めたく無かった
そして探していた偉人に似た名前の
「偉人伝」を借りた
本は「石川啄木」の伝記であった…
啄木 像
図書室顧問の女の先生に
大笑いをされた
「 未だ この本は貴方には無理ですよ
なんで 石川啄木を借りようと思ったの
こんな難しい本 どうしても借りるの ?」
こちらからすれば
余計なお世話である
「借りる」とだけ言ったら
何か想うところがあった様である
貸してくれた…
今となっては
その本の事よりも
毎日 図書室に行っていた事
あの芳しい香りのする
木造の校舎 そして木製の本棚
沢山の本たちの
あの独特な凛とした鼻感覚と空気感
私を心配しながら
優しく たしなめてくれた女の先生
何かを感じ
私の意向を尊重してくれた
ひとりの女性
それら諸々の事ばかりが
記憶にこだまする…
今更ながら 私は
日本人に生まれて来て良かったと想う
未だ戦前の名残りだらけの
田舎の木造の 日本の小学校に通えて
本当に幸福だったと しみじみ想う…
誰が見ていなくとも
神様は 何時も見ていてくれたし
お陰で どんな時にも
自分に嘘を付かなくて済んだ
素直にそう 想う…
いやはや 危ない危ない…
うっかり言い忘れるところで あった
私が 諦めずに探していた
心揺さぶる偉人とは 一体
そして その伝記とは…
実は「石川五右衛門」の伝記であった
まさに そうだった…
因みに この本には
あれから 50年以上もの時を経て
今迄一度も お目に掛かってはいない…
昭和ノスタルジー
小学校の図書室での浪漫 より…
石川五右衛門 画
残された心 と インザムード
私が そのミュージックテープを購入したのは
1,979年だったろうか
私にとって印象に深い楽曲が沢山収められた
市販のカセットテープがあった
然もそれは
ほんの束の間の販売だった様に記憶する
作詞作曲は来生姉弟のものが多く
詩と旋律のバランスが素敵で
作られたものと言う感じが薄かった
聞き流してもお洒落であり
じっくり聴いても味わい深く素敵だった
些か心に染み入ると言うか…
そんな感じでもあった
兎に角
洗練された佇まいの楽曲が多かった
歌手は 伊東ゆかり…
テープはディスクと違い
劣化が激しい上に
そもそもの存在理由が無くなった為か
時代の流れと言う
如何ともし難い葛藤に飲み込まれ
レコードの様に
レトロなものとも認識されず
消えて行くのを引き止める術も無い
収められていた楽曲は
あなたしか見えない
あなたの隣に
もう一度
そして…
エンドレス
約束だけロマンティック
残された心
イン・ザ・ムード
など など…
いちユーザーにとっては
良く分からないことなのだが
何故に束の間の販売であったのかが
謎である
同時期に販売されていた
LPレコードはあったが
幾つかの楽曲を除き
その内容は大分異なるものだった
大切に仕舞っていたのだが
三年前の貰い事故の時
車と一共に藻屑となって仕舞った
私のお気に入りは
インザムード と
残された心
だった…
詩と曲の旋律が絶妙に相まって…
都会の雑踏や
そこから逃れた時の妙な静けさ
若さゆえの浪漫チックな夢や幻想
全ての不安を掻き消してしまうほどの
これからの素敵な出逢いの予感さえも
そして 若さに不釣り合いな
粋な別れとか…
そんなもの達が溢れる曲だった
詩も 曲も つまりは
持って生まれた 才能なのかも知れない …
我が心のミュージックテープ より…
軽井沢浪漫…街の彩と塩沢湖畔に於ける木洩れ陽に想う
軽井沢を文字に綴ろうにも
その試みは困難を極め
簡単に扉を開いてはくれない
少なくとも私にはその様である
色で表そうと想っても
人も建物もそして自然も
その境目がはっきりしないほどに
あらゆるものたちが
絶妙に融合していると言わざるを得ない
それ自体の色が余りにも高度で
答えが出て来ない
然も見つけることさえ叶わない
彩についてもしかり
決まった加減など何処にも無い
人が関わることの出来るものに
限ったとしても
この地に関わった各人の
想い入れの歴史が
其処彼処 至るところに溢れており
軽井沢の持つ独自の色を語れば
それが一度塗りでは無く何度も
重ね塗りをしたり
下地から全て消し去って結局は
塗り直したり
色を微妙に調合し続け没頭する余り
その色合いを醸し出すのに
どうしたのかを忘れてしまい
また塗り直す
だから
此処軽井沢はその独特の色を彩を
他に漏らすことが無い
織り成す色が余りに深遠で
他に漏れることも無い
自らも再現することの叶わない
最早 手の届かない色だからである
街並みから外れ
少し足を踏み入れれば
自分よりか先輩の木々たちが
そして多くの記憶を持つ土たちが
よく来たねと話し掛けてくれる
それはまるで親愛なる
子どもか孫にでも寄り添う様に
軽井沢の歴史をずっと観て来た
自分たちの物語を
吐息に変えて囁き続ける
彼ら彼女らは間違い無く
この街並みよりも先輩なのである
だからこそ暖かく
人と街を見守ってくれている
軽井沢の歴史は
その街並みの歴史などと
微笑ましい勘違いはしないで欲しい
増してや文化の歴史などと
的外れなことは言わないだろう
このことについては
簡単には済ませたく無いものだから
ついつい拘ってしまう
数多の木々や草花
それを終の棲家とする生き物たち
水 空気 色 それに音…
それらの絶妙なマッチングが
奇跡の如く訪れ そして出逢い 融合し
誰にも真似の出来無い
軽井沢と言う
それ自体が風物詩となり得る
素敵なものが生まれた
この夢見心地な微睡みの中
塩沢湖まで足を延ばすとしよう…
今年十八になった娘が
未だ降りて来てくれる前に
妻と行ったペイネの美術館にも
湖畔の道を歩いて行きたい
子どもが生まれたなら一緒に
絵皿を買いに来ようと約束をしたが
結局は愛娘抜きとなってしまう様で
何気に可笑しい
塩沢湖畔は何時も憂いを帯び
大正 昭和前半に於ける
ノスタルジックな雰囲気を
然も全体に醸し出している
近頃 木立の中を歩くなどは
とても特別なこと
わざわざ何処かに出掛けて行って
そんな風な場所を探したり選んだり…
林業と言う掛け替えの無いものを
飽くまで商業ベースに乗せ
衰退させてしまった今の日本に於いては
かつて普通に存在した
雑木林や赤松林 竹林など
何処を見渡しても
探すことさえ容易では無い
二十数年前 私は
軽井沢の街並みを初めて訪れ
塩沢湖畔の憂いを帯びた姿に
惹かれ そして焦がれた…
風光明媚と言えばそれまでだが
湖畔と木立の佇まいが何とも絶妙で
其処には儚さと
憂いを帯びた浪漫がある
中でも陽が降り注ぐ時などは
木々の間から射し込む光が清涼で
清き天上のものの伝言を
まるで大いなる地上のものへ
届けんとしているかの様でもある
木洩れ陽は飽くまで柔らかく
あたかも湖面を清楚な絹で包むかの如く
微かにこの目を潤ませる
彼処に見えるのは
ペイネの像と茶色い館
ほんの少しだけ
湖畔の道を歩いてみたい…
あなたの色が 深すぎて
儚き憂いに この身は焦がる
森の教会 木立に惑う
何処か切ない 塩沢の湖畔
初秋の長月 浅間の里に…
彼女はもうすぐ 親もとを離れる
そして私は勿論 愛娘の為に
ペイネの皿を 買って帰る…
軽井沢浪漫紀行 哀愁の塩沢湖畔 より…
もう直ぐ六十の僕から五十八歳の君へ贈る 或る物語り
よっちゃん 今頃何してるかな
そう言えば もう五十八歳だっけね
ひと口に想い出なんて言うけれど
そんなに単純なものじゃないんだよ
あの頃 僕は…
たった一人の兄ちゃんを
突然に亡くしたばかりだったし
その後 僕のところに兄弟は
終ぞ来てくれず終いだったけどね
母ちゃんはつわりが酷かったから
ぼくを産んでくれただけで
自分としては精一杯だったらしいんだ
だから母ちゃんには本当に
感謝しているんだ…
よっちゃんも
弟のしょうじ君が生まれて来てくれる
未だずっと前だったからね
僕はね よっちゃん
近所のあんちゃん達とも
とても仲が良くて
あんちゃん達は 僕のことを
それは本当に可愛がってくれたんだ
だから あんちゃん達が
誘いに来てくれた時には何時も
正直とても迷ったんだ…
でもね 本当のこと言うと
三回に一回ぐらいは断っていたんだ
よっちゃんは未だ小さくて
皆んなと外では遊べなかったから
僕と一緒に よく絵を描いていたよね
僕が描いている時には何時も
そばで じっと見ていてくれた
身を乗り出したりも していたよね
そんな君は とても可愛かったんだ
紙はと言えば…
確か広告の裏を使ったりとか
それに そう わら半紙だったんだ
僕らの家はお互い
それほど裕福では無かったからね
それに よっちゃんは
僕の描いた絵を何故か…
大事にしまっていてくれたよね
始めの頃 僕は
とても びっくりしていたんだ
どうして僕の描いた絵を
そんなに大切にしてくれるのかって
何時も宝物の様に扱ってくれた…
でもね 僕にとっても
掛け替えのない素敵な宝物があるんだ
それはね よっちゃんが何時も
僕の描いた絵をしまっていてくれた
その時の…
よっちゃんと僕の
互いを大切にすると言う想いなんだよ…
その頃の僕たちのことは
今でも よく覚えているよ
僕はもう四つだったからね
でも君は未だ未だ小さかったから
覚えているだろうか…
だからその話を今 君にしてあげるよ…
僕は元々 絵が大好きで
大人になったなら
感動的な絵描きになりたかったんだ
一番好きな画家はミレーだったよ
「 晩鐘 」には とても焦がれた…
今よりも小さな三歳の時から
広告の裏とか…
余り好きでは無かったけど新聞紙に
鉛筆で絵を描いて遊んでいたんだ
よっちゃんが二歳になって
やっと遊べる様になった頃
僕も四歳になって
近所のあんちゃん達が
頻繁に誘いに来てくれてたんだ
僕は嬉しくて ついつい
遊びについて行ってしまうんだ
そんな時 小さな君は
未だ外には遊びに行けないので
家で静かに過ごしていたんだ
覚えているかい…
僕はあんちゃん達と遊ぶことが
それは大好きだったけど…
僕が絵を描いてあげると
君は満面の笑みで
何時もとても喜んでくれたんだ
勿論 あんちゃん達とでは無く
自分とだけ遊んでくれることが
何よりも嬉しかった様なんだ
僕はよっちゃんと同い年の二歳の時
二人兄弟の兄ちゃんを亡くしていたし
素直な君が可愛くて仕方がなかった
勿論 僕たちは
本当の兄弟の様に過ごしていた
君と遊んでいると
僕が描いた絵を大切にしてくれるので
とても自信がついたんだ…
僕たちは小学校までは
ずっとその延長だったんだ
でも何時までもそんな訳には
行くはずも無くてね…
中学や高校の頃はと言えば
そう 皆んなが普通に経験をする
ごく在り来たりな流れだったけどね
今はそれぞれの人生があり生活があり
会いたいと想う気持ちばかりで
何時も そのままに…
先日 君の母ちゃんが
回覧板を持って来てくれたんだ
たわいも無い話の中で
「 うちの よしいちは
今でも とっちゃんのこと
よく想い出してるよ 可笑しいない 」
そう言いつつ 大笑いをしながら
ほっこり帰って行った…
全然可笑しくないんだ
よっちゃん…
僕も時々想い出してるよ
君にとっての故郷は何処かな
何気に想うんだ…
故郷って言うものは
自分の心の中にあるんだってね
だからこそ色褪せること無く…
忘れ掛け 朧に霞んだものは
ややもすれば より鮮明なものとなって
皆んなの心の内に
生き続けるんじゃないのかな…
今度また 一緒に
何かやろうよ よっちゃん…
君と僕の昭和浪漫紀行 より…
さくら さくら…
桜にまつわる詩歌 散文
溢るるほどに 数多な歌
歌い継がれる 多様な名曲…
ひと春の 同じ場所に限れば
満月から新月まで さえも
咲き誇ること叶わぬ 束の間の桜花たち…
終ぞ 忘れ得ぬ存在として
我々日本人の心を 掴んで離さない
儚くも凛とした花たちは 雄々しく
今や 日本国内に限らず
その魅力 最たるものの様である
我々日本人に とっての
桜に対する想いを 鑑みる時…
単に視覚的なものに のみ
心惹かれている訳でも無い様に 想える
物心付く 幼い頃から
梅の開花や 明るい空気の色に
春の訪れを 知り…
人知れず蕾を膨らます 桜に
控えめで奥ゆかしいと和み また共感し
その膨らみ具合に 心焦がし
今年の見頃はいつ頃 などと
余計なことにまで 想いを巡らす
然もどの桜にも 穏やかな眼差しで
知らず知らずに 心中語り掛けてしまう
花が満開になる 嬉しさに
本当は思わず 桜木を抱き締めたくとも
控えめで恥じらう 日本人は
そんなことを する筈も無く
増してや 言葉にすることも無い…
桜の花は 咲き誇る時も散った後も
紛れも無く その本質に変わりは無い
それを古(いにしえ)より知る 我々日本人
その根幹に 脈々と紡ぎ流れている
儚くも強き「潔く散ると言う美学」…
言葉で表そうにも
日本語の持つ「言の葉」でなければ
叶うことの無い「もののあはれ」の数々
白虎隊士中弐番隊 そして神風特別攻撃隊
彼らの心中に 想いを馳せる時
その根底に脈打つ 普遍的なものが見える
今生に培ったもの 全てを捧げ
ひとの為に尽くし 自らの人生に幕を引く
そこには狡猾さや
邪(よこしま)な心は 一切存在しない
清潔で穏やかな 日本の風土に育まれた
桜の花と 日本人の心…
さしずめ 互いにとっての
弛まぬ「かげおくり」なのかも知れない
いのち短し 恋せよ乙女
我が胸焦がす 命の花よ
ああ何時までも 忘れてくれるな
君らの幸せ 願って止まぬと
かけがえのない 命の花よ
幾とせのちに 新たな花を
溢るるほどに 咲かせて欲しい
君よ 花よ 永遠(とわ)に …
日本の国に咲き誇る浪漫
潔きものたち へ…
昭和浪漫…時代の息吹について 想うこと
昭和三十年代初頭のこと…
私が生まれ そして育った
東北の地 福島県北部に於いては
地方の田舎町とは言え
単に一過性のものとは異なった
賑やかな街場が彼方此方(あちこち)
にありました
何処(どこ)へ行っても地場に
独自の産業がしっかりと根付き
増してや外部から来た商店なども無く
地元の人間が営む店舗や施設が
弛まぬ人の繋がりと共に穏やかに
そして賑やかに軒を並べておりました
然も養蚕業を始めとする農業が
未だ未だ活発に且つ安定しておりましたし
それら第一次産業が
あらゆる地元産業の活躍の礎を
十分に支え切れていた様に想います
農作物に目をやれば
飽くまで基本は稲作であり
米価審議会なるものが存在し
稲作農家のやり甲斐を国が担保し
またそのことが当たり前のこととして
皆んなの意識の中に定着しておりました
昭和ノスタルジーの代名詞とも言える
木造一戸建て公営住宅が
其処彼処(そこかしこ)に現れ
取り巻く自然との多様なバランスも
極めて良好だったと記憶しております
次第に土地の有効活用からか
コンクリート工法の利便性からか
更に核家族化に拍車が掛かったからなのか
何れにしても
俗に言うハーモニカ住宅なるものが
あっと言う間に公営住宅の主流となり
木造公営住宅が増えて行くことは
それ以降 二度とはありませんでした…
不思議なもので
木造と言うものは時を重ねても
ただ単に古くなって行く訳でも無く
逆に周りの風物に溶け込み
時空に紛れて馴染んで行く様な
素材が持つ 自然に帰結すべく原点が
そもそも備わっているのかも知れません
私が二歳半ばの時 我が家は
それまでの街場の借家から
前述の一戸建木造住宅に移りますが
一度は抽選に落ちると言う…
当時に於いては 当選より遥か狭き門
栄えある落選に 当選してしまいました
失礼しました…
少々 冗談が過ぎた様です
しかし一棟 キャンセル空きが出た為
繰り上げ当選で急遽入居の運びとなりました
越した先は偶々だったのでしょうが
雑木林が広がる自然のど真ん中でしたから
三十棟にも満たない木造住宅は
とっぷりと木立の中に紛れてしまい
木と言う素材も相まって
周りの風物に溶け込むことは
何ら難しいことではありませんでした
周りにある里山たちは
なだらかで 宛(さなが)ら丘の延長の様
民家から里山までの地形は
緩やかな斜面の果樹畑となっており
絵本の中の挿絵の如くそれは明媚なものでした
未だ未だ農業が盛んな時節
果樹畑 野菜畑 桑畑などには人の手が入り
一年を通して何時も整えられ
季節折々の綺麗な状態が保たれた情景には
今更ながら人の息吹を感じることしきりです
稲作農家も未だ未だ多く
農閑期の田んぼは広い草原と化し
春には草花が数多咲き乱れ
寝転がって遊べる子供たちの憩いの場
近くには至る所に小川が走り
兎に角 水が清流で嬉しい程に美しく
毎春始めに 決まって驚いていた
懐かしい記憶さえ残っております
農薬散布が普及する前は
魚は勿論 多様な生き物たちが
時には サンショウウオさえ泳いでおり
トンボにバッタ 夏には蛍も生息し
ごく普通に色んな生き物を見掛けることが
四季を通じての贅沢な風物詩でありました
自宅の前には雑木林が広がり
赤松の周りには様々な広葉樹が植生し
四季の移ろいを肌で感じながら
感覚的に心地よく暮らせたと想っております
国の立場を決定する者たちに限らず
内外の金融資本家たちの思惑も絡む中…
日本の農林業と言うものが
結果的に急激に衰退してしまったことは
紛れも無い事実であり残念でなりません
私が過ごした少年時代 昭和三十年代は
これから訪れるであろう
幸せな社会をしっかりと視野に入れ
皆んなが それを疑うこと無く心焦がし
自分の誠実な頑張りは社会貢献となり
家族の幸せにも繋がると信じておりました
我が国日本の戦後復興の要因を
色々と列挙される方もおいででしょうが
矢張り 最たる要因は飽くまで人
我々日本人の強い想いと希望であったと…
もう直ぐ還暦の私は
確信を持って且つ 甚だ冷静に想っております
自分が子供だった時代は何故に
皆んなが楽しげに そして前向きに
様々な周りの風物詩にも関わりながら
週休一日の疲れを笑い飛ばしながら
目の前の日々に没頭出来たのでしょうか
人が希望を持つと言うことが
世の中にとって どれ程大切なことなのか
今の時代にこそ本当は
とても重要な事柄ではないでしょうか…
日本人ひとりひとりの
明るく前向きな強い想いが
物事を具現化する波動となり
更に言えば肯定のエネルギーとなり
小さな奇跡の積み重ねが日常的に
連鎖し起きていたのかも知れません
だからこそ世の中に人々の想いが溢れ
空気感が光り輝いていたのだと想います
今でもあの時節の空気感を
忘れ得ぬ私にとってのキーワードは
何と言っても「 時代の息吹 」であります
そして息吹こそは「 生命力 」であり
心に「 浪漫 」を招くことの出来る
言わば 根本ではないかと想っております
希望に満ちた戦後昭和の時を
自らの実体験に基づき想いを巡らす時
今の時代に生まれたことの意味を
いたずらに見過ごしてしまうこと無く
弛まず見詰め続けて行きたいと想いつつ
そろそろ 今の時に戻りたいと想います…
私の昭和浪漫紀行 より…
雪が…出羽最上地方に於ける 夢心地な郷愁
近くて遠い場所があります
距離と時間との兼ね合いにより
簡単に言ってしまえば
アクセスの都合で遠く感じるものと
別にそれ程遠くも無く
行くのに手間が掛かる訳でも無いが
その地を訪れることに
自らの中に辛い想い出があるとか
何か心に引っ掛かるものがあり
ずっと足が遠のいたままでいるなど
心情的なものに起因する場合とが
ある様に想います
私にとっての山形盆地は
単純に前者の事情によるものでした
山形自動車道が開通して
私の住む福島県北部からのアクセスが
まるで魔法の様に一気に良くなりました
それ以前はと言えば…
自宅から飯坂温泉を経由し
栗子国際スキー場脇を通り米沢へ
そこから一挙山形盆地へ向かうことが
ごくごく一般的でありました
別ルートとしては
福島と宮城の県境に当たる
蔵王連峰南麓を通り高畠へ抜ける道も
旧幹線道路としてはありましたが
昔は道幅が狭く車の通行路としては
中々難儀と言う他はありませんでした
山形自動車道が通り
東北自動車道村田ジャンクションから
一気に山形盆地を目指せる様になり
それ以降 私は 月山 鳥海山
機会があれば訪れる様になりました
そして何度も訪れる内に
この辺りの土地柄に対して何故か
不思議な感情が芽生えて来ておりました
雪国特有の あの…
空気が引き締まる様な寒い節に限らず
暖かい節 暑い節に於いても
この見方が変わることはありませんでした
始めの頃の感覚は唯ぼんやりとした
それはかなり漠然としたものでしたが
土地が全体的に浄化されている様な
必然 気持ちの良い凜とした様な
妙な感覚に何時も襲われておりました
初めの頃は朧げながら
これは雪国特有の積雪により
汚れが落とされ流され土が引き締まり
春の訪れと共に一気に
その厳しさから解き放たれた
土 空気 水を含めた
あらゆる生きとし生けるものたちが
その生命力を爆発させる
ある種のエネルギーをより具現化する
さしずめ量子力学で言うところの
波動が高まると言うことでしょうか…
雪国特有の共通する現象と想っておりました
しかし もしそうであれば
雪国どこに行っても大なり小なり
その感覚は受け取れるはずなのですが
私の経験上お伝えするならば
この出羽最上地方で感ずるものを
他所に於いて感ずることは
恐らくは余り無かった様に想います
ここ出羽最上地方に多くの秀句を残せた
と言う紛れも無い事実の真意は…
たまたまこの地に滞在した際の
芭蕉の体調が良かった訳でも
頭と感性が特に冴え渡っていた
と言う訳でも無かった様に想います
秀句を残せるだけの多岐に渡る
勿論 視覚的な情景だけに留まらない
多次元に於ける心と魂を揺さぶる
深い部分でのモチーフが
数多存在していたのではないでしょうか
今から二十五年程前…
スタジオジブリの劇場版アニメに
「 おもひでぽろぽろ 」
と言う素敵な作品がありました
画をみているだけで満たされる位に
各場面の情景が澄み切って美しく
儚げな感傷を帯びている様な
それ程に美しい作品でありました
何とも切ない程に憂いを帯びた
最早この世のものでは無いものに焦がれ
魂ごと吸い込まれそうな自分が
紛れも無く そこに存在しておりました
前述の通りアクセスが良くなり
山形盆地を訪れるほどに
季節に関係なく常に土地も空気感も
凛として引き締まり…
その上心穏やかなることにも
徐々にですが気付いて参りました
加持祈祷 口寄せなどが
主流だった一世代前 二世代前までの
ある意味曖昧な時節の残像が
如何せん 未だ未だ残っていた当時…
宇宙と言う神の意志の計らいか
より正確に過去 現在 未来の事柄と
それらの意味について世に伝えるべく
曖昧では無い標を示すべく
確かに存在している者たちが
徐々に世に輩出されて来ていることが
未だ未だ認識されていない時代のこと
はっきりとした説明は付かないものの
私には その答えが解り掛けておりました
山形盆地の位置する出羽最上地方には
いにしえよりの守り神が存在しておりました
日本人ならご存知かと想いますが
あの出羽の神々であります
神々は出羽三山に鎮座され
出羽最上地方の安らかなることを
そして日本の国の安らかなることを
ずっと願って来られました
因みに月山は「 過去の山 」
羽黒山は 「 現在の山 」
湯殿山は 「 未来の山 」であり
三山の参拝は即ち
死と再生を意味する訳でもあります
また一風変わった別の見方もあり
これは出羽三山についてと言うよりも
出羽山地全体についての捉え方の様です
月山を 「 死の山 」
鳥海山を 「 生の山 」
そして湯殿山を 「 恋の山 」
とするものであります
何れにしても
伝えようとしていることが
共通していることに感慨も一塩です
出羽最上地方に於ける
あの身が引き締まる様な清潔感と
穏やかなる安堵感とは
出羽の神々の弛まぬ篤き守護と
それに依るところの人々の心根では
ないかと想っております…
そして矢張り 雪…
雨に依る浄化もさることながら
何分 雪に依るそれは最大のものであり
最大の浄化をもたらします
降雪地域に於ける雪があらゆるものを
浄化し新たなるものを再生することは
言うまでもありませんが
それは遥か以前より永きに渡り
繰り返し営まれて来たこと
近年になり増えて来た現象…
掟破りの時期に まさかと思う地域に
紛れも無く雪が降ると言うことであります
これは果たして
地球温暖化に依る異常気象なのでしょうか
如何せん そんな訳はありません
誰が言ったのでしょうか…
地球は温暖化になど なってはいません
寧ろ寒冷化の一途を辿っています
地球は生き物なのです
そして何時も一定の条件で
私たちの為に存在する訳ではありません
ですから寒冷化の一途を辿ることも
生き物としての地球にとっては
しごく当たり前のことなのです
生命体としての地球にとって必要だから
その様な現象が起こるだけのことなのです
まるで天動説の時代に
何時迄も浸り切るどころか
事あるごとに振り出しに戻っていては
矢張り人間は駄目なのだと想います
何時の間にか人間は
また元の木阿弥に帰ってしまうのですから
何とも苦笑に絶えません…
神々も 我々人間を守ると言うことが
如何に大変かと言うことでもあります
大変申し訳無く 陳謝するしかありません
話を戻させて頂きます…
時期 場所 その量に於いて
掟破りと私たちが感じる雪について
実は掟破りでも何でも無い
地球からの 宇宙からの そして神々からの
貴重な贈り物です…
その時期にその地域に
浄化が必要だからこそ降るのであって
だからこそピンポイントで降るのであって
人間が勝手に作り上げた公式に
当てはまらないものは全て異常気象と
決めつけてしまうことこそ
そもそも如何なものでしょうか…
勿論 雨についても同様です
山形盆地をはじめとする
あの出羽最上地方に触れる時…
私は つくづく想うことがあります
かつて スタジオジブリが
この地域を題材にしたアニメ作品を
制作するにあたり
モチーフをより美しく企画するとか
観客により大きな感動を与える為に
意図して感動的な画を作り上げるとか
そんなことは一切していないと言う
紛れも無い事実であります
百聞は一見に如かず
実際の出羽最上地方の情景をご覧になれば
その答えは直ぐに出るはずです
あくまで素材をそのままに
ジブリのもつ類稀なる技術をもって
出羽最上地方の情景と言う
実際に美しいモチーフを
忠実に再現したに他なりません
逆にジブリだからこそ
ここまで忠実に再現し得た
ある意味 偉業なのかも知れません
そして山形盆地が忠実に
再現された画が何故にあんなにも美しく
言葉を失うほどのもの なのか…
私の住む福島県の最北端に近い地域は
戦後復興の波は緩慢であり
ややもすれば都市部の戦前の
更にひと昔前の様相 さながら…
それでも 矢継ぎ早に押し寄せる
テレビを通しての情報の過多により
何時しか欧米ナイズされ歯止めが効かず…
それなりに発展し便利になって行くのが
悪いことだとは決して思いませんが
古き良き沢山のものを捨てながら
商業的な目先の便利さに
余りにも固執し拘り過ぎた結果が
今になって歪みとなり進退極まっている
その様に想えて仕方がありません
あの時代 私の住む東北本線沿線は
どうしても準備が整う以前に
商業の波が有無を言わさずに押し寄せ
振り返ってみても…
人口があり商業ベースに乗れる地域は
それが例え田舎であろうが
営利至上主義の金融資本から逃れる術は
どう足掻いても無かったと言うことです
奥羽本線沿線の山形盆地を見た時に
私はあることを感ぜずにはいられません
戦後復興が遅くなった部分が
少しは有ったのかも知れませんが
私の育った地域もその辺は大差など無く
当時に限って言えば
交通の便が少しだけ違ったかも知れない
と言う程度のものだと想っております
そして見方を変えた時…
奥羽本線沿線の山形路 出羽最上地方は
本当は守られていたのではないかと言う
私なりの発想であり また見解であります
幼少期よりずっと東北の地で育った私は
不便さも 便利さも 不要な便利さについても
失われた古き良きものたちが
二度と再生出来ない現実とその虚無感も
全てこの目で見届け 肌で感じて来ました
昭和四十年代 五十年代に於ける
商業本位な金融資本があれ程では無く
もっと穏やかな時代の流れであったなら
修正出来たものも数多あった様な気がします
出羽の神々は出羽最上地方を
本当は長い目でしっかりと守っていた
その様に 私には想えてなりません
あの凛として清潔感溢れ
穏やかなる この地域の未来も
神々は これからもずっと
見据えてくれている ことでしょう
それと同時に…
古き良き日本の良さが足早に消えつつある
今の世の中に於いて
近頃の不思議な世相で言えば
除夜の鐘をどうするとか
正月の餅つきをどうするとか
日本人は全く迷惑に想っておりませんが
困ったものです…
誰が考え出したことなのか
まるで 取って付けた様な可笑しな話です
あの「 おもひでぽろぽろ 」
の画を そのままに…
まるで天国をループしているかの様な
吸い込まれて行く様な情景を
悠久の山形路から
何時までも 失って欲しくは無いと
切に願わずには いられません…
出羽の神々がもたらす
夢心地な郷愁と言う名の浪漫 より…