昭和十九年 今いる友に捧ぐ そして後世の日本人へ捧ぐ…
敷島の 大和ごゝろを 人問わば
朝日に匂う 山桜花
昭和十九年十月二十五日は
今生に於ける 僕らの別れでした
予科練甲飛十期の友たち
其れに近頃知り合ったばかりの友たち
永峰くん そして大黒くん…
今 目の前にいる
大西瀧治郎中将の 労いの言葉が
僕の腑(はらわた)に染み入るかと
問われれば
確かに其の様に感じたかも知れませんが
僕の本心を以ってすれば…
君たち 友のこと
君らの秘めた心情やら
ご家族の方々のことなど
そちらのことに
些か気を取られていた様に想います
日本のこれからのこと…
子供たちが明るくはしゃぐ姿や
女性たちが希望を持って
優しく艶やかに過ごせる世の中が
きっと来るだろう とか
母に済まない とか…
水盃は味気無く
片道切符の別れには
確かに似合っていたのかも知れません
僕らは大和隊 朝日隊 山桜隊
そして敷島隊に分かれ 征きました
唯一 靖国の桜の花の下で
逢えることも
今となっては 楽しみの様に想います
僕は君たちの真心を決して 忘れません
そして
生き残る日本男児よ…
貴方たちには
ささやかな 伝言があります
いつも 雄々しくあって下さい
これから生まれる子らに
夢と希望を与えて下さい
決して 私利私欲に走らないで欲しい
僕らは そう願っています
また 信じています
故郷で桜の花を見たことが
つい 昨日のことの様に想えます
神風特別攻撃隊 敷島隊 中野 磐雄
さくら さくら
のやまもさとも みわたすかぎり
かすみかくもか あさひににおう
さくらさくら はなざかり
さくらさくら
やよいのそらは みわたすかぎり
かすみかくもか においぞいずる
いざやいざや みにゆかん…
感謝…
スターダスト 昭和の或る日曜日の夕方…
日曜日の夕方
子供達は消えた
大人達も辺りを伺いながら
いつの間にか消えた
そして私も
自宅のテレビの前に
皆んな 消えた…
子供時分の事なので
詳細は余り覚えていない
双子のデュオ「 ザ・ピーナッツ 」の
妹さんが亡くなられたと知ったとき
未だ七十代半ばであったことと
双子のお姉さんの方も
数年前に亡くなられた記憶も併せ
お二人共 逝くのが少し早かったかな
と言う想いもある
我が家にテレビが来てくれた時に
「 シャボン玉ホリデー 」と言う
一世を風靡したバラエティ番組は既に
放送されていた
昭和三十六年六月四日が初放送
私が四歳半のとき
勿論 遊ぶことが仕事の頃…
近所で唯一 テレビのあるお宅に
遊びに行き テレビも見せて貰っていた
私より九歳年上の長男
七歳上の二男 四歳上の末の三男
このご兄弟にはお世話になった
想い出す…
そのお宅では 彼の
「 シャボン玉ホリデー 」も見せて頂いた
内容は 訳が解ら無いのだが
小さい子どもながら
兎に角ブラウン管に映る色々な画像が
不思議で仕方なく
また興奮もしていた
それから一年位の間に
近所中にテレビが訪れた
我が家は早い方では無かった
それでも
ビクターのテレビが
足付き 瀬戸物の犬付きで来てくれた
今のテレビよりもずっと美しく
存在感があった
当時は勿論 「 白黒 」…
幼稚園 小学校となり
毎日が遊び三昧の日々の中
当時はどこの親たちも
「 勉強しろよ 」と言う時代
しかしそれは殆どが
近所中に対する
只のデモンストレーションだった
時の風潮が高度経済成長の最中
未来志向であった為か
「 当家は勉強をする子供に理解がある 」
と言うことを
周りに対しアピールしていた訳である
そんな事は子供心に皆んな判っていた
暗黙の了解で親も子も
皆んなが受け流していた
奇っ怪だが ブラックユーモア的な
面白い時代であった
そんな訳で勉強などそっちのけで
平日でも遊び三昧
日曜日ともなれば尚更
の筈なのだが
違っていた…
日曜日の夕方になると
皆んなスーッと潮が引く様に
居なくなった どこかへ
逆に 残って遊んでいる奴は
どこか変わった奴と思われていた
そう記憶している
理由はたったひとつ
「 シャボン玉ホリデー 」を見る為である
小学生になるとある程度意味も解るし
クレージー・キャッツのコントにも
芯から爆笑出来た
この三人は可笑しかった
いつの頃からか 毎回出ていた
それに何と言っても
主役は ザ・ピーナッツ
歌がメチャクチャ上手かった
子供心にも本当にウマイと思った
くどい様だが 本当に上手かった
特にシルビー・バルタンの
「 あなたのとりこ 」
これは私の中で 絶賛であった
そしてエンディング
ガス燈が雰囲気を創り上げ
霧をまとった演出が
哀愁を醸し出している
そしてムード音楽をギターが奏でる…
ザ・ピーナッツの妹さんの記事に触れ
改めて 番組内容を確認してみた
今迄 ずーっと…
夕方六時から一時間の番組だと
勝手に記憶していたが
どうやら六時半から
三十分間の放送だった様だ
内容が子供心にも満足するものであり
充分に満たされた気分になれたのだろうか
そしてエンディングの又エンディングが
あった
ザ・ピーナッツが歌う
私の記憶だと 確か…
「 リズムに乗せて 運んで来るのね
ホリデー ホリデー シャボン玉
シャボン玉 ホリデー〜〜 」
更に 牛の鳴き声の「 モ〜〜 」
が こだまして全終了であった
絶妙だった…
全然ダサさなど無い
お洒落で素敵な演出であった
ハイセンスなプロミュージシャン
エスコート役のクレージー・キャッツ
共に 洗練されていた
今 この様な番組は無い
何より 視聴者を楽しい気分にさせ
スポンサーの意向をも 絶妙にそっと入れる
観ている者に幸福感と
次週までの哀愁をもプレゼントする
そう 全てに対する
気配りがあったのだと解り
今改めて 絶賛させて頂いた
昭和の良き時代を駆け抜け
哀愁と浪漫 それに笑いと安らぎ
明日への活力をくれた
シャボン玉ホリデーに携わった皆様に
ありがとうと言いたい…
サンキュー
スターダスト…
昭和浪漫…
日曜日の夕方の あの風物詩を
私は 忘れない
昔日のあんずの里に想いを馳せ 縄文の世を散策す…
もう 大分前のこと
二十年以上になるだろうか…
緩やかで穏やかな斜面 あんずの里
この見晴らしの良い畑作地帯を
数日掛けて散策したことがあった
勿論 この辺りに
宿泊施設が今ほど多くは無い時代
やっと取れた宿に三連泊をし
色々な時間帯 また条件下での
この地の気質を味わってみたいと言う
予てからの希望を実現させた
あんずの里とは
現在の長野県千曲市…
日本的素養染み渡る信濃平野の
真っ只中にあたる
四月末から五月初めに掛け 私は
珠玉の景観を誇る しなの鉄道の沿線
屋代駅すぐ近くに宿をとった
新緑の節 駅近くの里山は一斉に目覚め
辺り一面 黄緑色に染まる山々は躍動感溢れ
生命の息吹をふんだんに感じ取ることの出来る
その佇まいは
柔らかな日本情緒溢れるものだった
果樹畑が広がり あんずの丘あり
里山の彩柔らかで 然も濃淡が一様では無い
変化に富んだその色合いが全体の黄緑色の
美しさに止まらず
目にとても眩しかった
それ等 明媚な情景に…
私の気持ちは相当に高揚したものである
あんずの里と言えば
更埴を思い描いてしまいがちだが
それは飽くまで村興しの程度の強弱であって
どの地域が主たる杏の所縁と言う訳では
決して無い様に想える
春うららかな節
信濃の里に数日間滞在していると
信濃と言う地域全体の
全てになだらかな加減が心地良く
日本的情緒をどうしても拭いきれない瞬間が
余りにも多い
そして 信濃平野全体を捉えてあんずの里と
呼ぶことこそが
本来 的を得ている様に想える
そもそも 私がこの地に興味を抱いた訳は…
出雲の国 大和の国 出羽の国などとともに
信濃の国は
古き良き日本の原風景を
多様に感じることの出来る処だと言うことに尽きる
飽くまで 私なりの感覚ではあるが
その様に想っている…
然も 日本昔話どころか
相当に古い日本の ありのままの姿を想像するに
難くない
実際に その実像が見て取れる…
寒暖厳しき四季の移ろいや
春の訪れに見る 心弾ける様な
それでいて厳冬の激しさ尾を引き
その分までも強く染み入る様な 喜びの全ても
日本人が内に温める
皆が幸せになり 初めて感じる喜びさえも
さしずめ 今始まったことでは無い様に想える
そして 私がこの地を訪れた最たる訳が
いみじくも ここにある
この地に暮らす人々の内面までもが
目の前に広がる春の心和む情景の様に
穏やかであることを期し
その姿を 一見したかった…
かつての姨捨伝説の真意が
日本人的人間愛そのものであったことへの
私の弛まぬ 拘りなのである…
遥か昔 この地には
大いなる縄文の息吹があった
それは黎明期よりの 本当の日本である
見渡せば 至る処に磐座があり
端正な形は縄文の時節そのままに
自然の山々に紛れた数多のピラミッドがある
悠久のときを経ても尚
深い緑に覆われてしまってはいるが
しっかりと見て取ることの出来るその存在は
悠久の縄文のとき
大いなるエネルギー循環供給システムが
確かに存在していたことを物語る
然しコストのかからないシステムには
今となっては敷居の高い 或る条件があった
それは 人々の精神性の高さである…
言い換えれば 神々とともに生きること
そして宇宙的生き方を貫くと言う覚悟に他ならない
今では文化人類学からも宇宙哲学の面からも
様々な情報が得られる時代となり
神々とともに生きるとは如何なることなのか
意識するとしないとに拘らず
過去の世に於いて 誰が
宇宙的な生き方をしていたのか
そして その結果はどうだったのか…
自分の生き方次第では結論に近づき
そして辿り着ける様に
神々が標を付けて下さる世の中に なりつつ
ある様だ
その意味に於いて
今の時節に生を受けたと言うことについての
悠々たる想いは 尽きない…
本当の日本は何処に…
私たち日本人は その答えに辿り着く為に
そろそろ 浪漫散策へと踏み出すべきとき
ではないだろうか…
けんじさんのあるきかた にみる…
日本人の心の中の文豪
ひとの想いを見詰め続けた宮沢賢治とは
心優しき浪漫びと…
その 彼にとっての日頃
所謂 宮沢賢治にとってのサハー(娑婆)世界に
ほんの少しだけ 眼を向けてみては如何でしょうか…
宮沢賢治とは優しく思い遣りがあり そして勤勉で誠実
なひと
得てして少しばかり マニュアル通りな表現になってし
まった様な 気もするのですが…
誰しもが彼に対して想う印象に それほどの違いは無い
様に想えること しきり
果たして等身大の宮沢賢治とは一体 どんな感じだった
のでしょうか…
奇抜で意外な一面も お持ちだった様です
美食をする時には浮世と繋がるおまじないをしたりと
か 蕎麦が好物で相当に早食いだったりとか
中々 お茶目な一面も…
心もちは穏やかで優しく 思考は哲学的で装いはとても
お洒落
真面目で そしてユーモアもある
どうやら そんな感じの若者だった様です
若き日の賢治
そこのところを 私は…
宮沢賢治に親しみを込めつつ
皆さんにお伝えしたく想う訳です
文学作品のみならず 心燃やした四十年足らずの人生
の中で 彼が出逢った全ての事象は
差し詰め 自身にとっての「童話」そのものだったのか
も知れません
一風変わったダンディズム…
賢治のそのお洒落なセンスは 何も装いだけではありま
せん
趣のある「賢治さん」の歩き方を眺めながら
不肖私めは この辺りでお暇(いとま)をさせて頂きた
いと存じます
おんなじ歩き方ですよね⁇
できる男は 洋の東西を問わず
考えることは みな おんなじですから…
東北人の純朴なる浪漫と
ふとしたお洒落への拘り に見る…
道北遥かなり 若き日の妻へ捧ぐ…
サロベツ原野大沼にて 美恵子
記事が 津軽海峡を渡ります
私は若い頃 真新しいものや自ら行かなければ
手の届かないものが 無性に好きでした
所謂 好奇心が人一倍旺盛ではなかったかと
想います
何につけても 実際に自分の目で直に見たい
と言う願望が強く
思い立ってから行動するまでに
何時も 大して時間は掛かりませんでした
北海道の地形や風物詩が織り成す
シベリアや東欧にも似て
哀愁を帯びた情景…
私にとって今感じるであろう以上に
それは
驚きとの出会いを予感させるには
十分なものでした
そして何と言ってもあの距離感が齎し出す
意表をつく程に遥か遠いところが
当時の自らの趣向からか
若さも手伝ってなのか
中々手が届きそうに無いものに焦がれ
そこに辿り着きたいと言う
切なる願望の対象ともなっておりました
若いと言うことは大概
未経験と経験の連続ですから
北海道探訪は私にとっての 恐らくは
未経験のひとつの象徴
だった様にも想います
五日から一週間ほどの道内移動の日程で
数多く訪れた
北海道の旅の中でも
今回は 初めて道北の地を訪れた時の想い出を
綴らせて頂きたいと想います
オロロンライン
この時はフェリーで仙台発 苫小牧に渡り
工場地帯の原野の中を直ぐに
道央自動車道に乗ったことを記憶しております
道央自動車道では
その眺望の良さが存外な驚きであり
高速道にも拘わらず 周りを一望することが
出来ました
そのことが 当時としては
大層不思議なことに想えたのですが
今 様々な高速道路を利用してみて
解ることですが
高い所から真っ直ぐに下る際に
前方の広がりが醸し出す
北海道特有の地形が
必然的に良好な見晴らしを
演出してくれたのかも知れない
と言うことです
恐らくは全体が広いので
勾配が緩やかとなり 高低差が
余り気にならなかったのでしょうか…
返って時間距離が短かいことの方が
気になったのと同時に
些か名残り惜しくも感じられ…
またそのことが
大層可笑しくもありました
当時の私にとって
道央自動車道での時空が それほど迄に
快適なものであったと言うことを
今更ながら
つくづくと想い出しております
札幌 美唄などを過ぎ…
そこからは一気に
当時の道央自動車道の終点を目指すの
ですが
この時は平成になる少し前のことで
旭川まで未だ 高速が通っていなかった様に
記憶しています
終点は確か 滝川だったと想います
高速を降り 留萌に向かいましたが
途中 北竜町のひまわり畑の丘が
悲しいほどに美しく
下知識の無いまま遭遇した分
余計に新鮮で
これからの道北の旅を予感させる
大いなる切っ掛けにもなりました
映画「ひまわり」を彷彿させるその情景は
哀しい中にも希望を象徴するかの様でもあり
今でも深く印象に残っております
北竜町 ひまわり畑の丘
留萌から道北までの距離は相当なものですが
予想だにしない道路のお陰で
一気に道北の地を目指すことが出来ました
返す返すも本当に懐かしい…
あの何百キロあるのかさえ分からず
信号とも ほぼ無縁のオロロンラインは
当時は風力発電のプロペラ風車など
当たり前でしょうが
何処にも有るはずも無く
高所に道幅のポイントを示す為の
矢印表示が ある位でした
遮るものが無いとは言え
有りの侭の自然の中は矢張り
爽快でもあり
自分がまるで風の様とは
正にあの時のことだったのか
などと 今更ながら
感慨深く想ってもおります
道北での一泊目は
ノシャップ岬に宿をとっておりました
ので
先ずは水族館を見た後に
気付けば防波堤の上は黒山の
人だかり
夕日を眺めるポイントだと
重々知ってはおりましたが
ここまで来て人間
考えることは皆同じ…
そんなこともあり
道北の夜長は何故かほっこりとする
趣深いものとなりました…
サロベツ原野
翌日はサロベツ原野にて
最果ての遥かなる感慨に暫し浸り
北緯四十五度の立て札には…
我が日本国内の意外にも遠い距離
と言うものを
しみじみと痛感させられました
もう三十年も前のことなので
それから後立ち寄ったところを断片的に
想い出の中…
色々と巡ってみました
そして サロベツ原野の地図を見ながら
ひっそりと静粛に包まれながらも
全てが大らかで開放的な大沼に
ついつい引き寄せられてしまったことを
いつの間に
想い出しておりました
沼とは何とも控えめな呼称で
実際には小さな湖です
水深の基準からか
沼の呼称になったのでしょう…
大沼の水面(みなも)に
まるで浮かんでいるかの様に
見えつつ
直ぐそこに佇む利尻富士
その余りにも美しく
飛び切り端正なその姿が
ここまで来れたと言う安堵感と共に
素敵な解放感をも
私たちに与えてくれました
その時の 未だ若かりし妻の
嬉しそうな表情が忘れ難く
ついこの間の様な気がして
仕方ありません
サロベツ原野 大沼
それから もうひとつの沼に行きました
確かメグマ沼と言う名だったと想います
緑豊かな程よい大きさの沼で
子供が生まれたなら
メグマ沼に連れて来たいと
彼女が話していたことを
ふと想い出した時に…
矢張り 月日の流れと言うものを
しみじみと感じてしまいます
稚内動物ふれあいランドにも訪れ
樺太犬 タロだったかジロの子孫
がいたことも 良く覚えておりました
道北の二泊目は稚内に宿泊
翌早朝に出発をし
オホーツク街道を一路
知床 紋別方面へ向けて下りました
見下ろせば海岸沿いに
遥か先まで道なりに見えるその様は
最早何に例えたら良いのやら…
それから大分走り
朝七時ちょっと前
街道沿いにクッチャロ湖の案内板
を見付けたので 寄り道…
情景が素晴らしいと言えば
それ迄でしょうが
湖畔の美しさが本当に意外で
この上質な画には些か驚かされました
ひっそりと佇む
その静けさは まるで芸術の様
道北の旅からの
最後の贈り物の様で…
未知だったものとの出逢い
そして心地良い余韻からなのか
後ろ髪を引かれながらも
何とも嬉しい気分になれたことが
懐かしく想い出されます
クッチャロ湖
私にとっては三度目の
北海道の旅 途上…
初の遥かなる道北の旅情は
ここに終わりを告げることとなります
しかし この旅は未だ道半ば…
ここから紋別
レイクサロマへ そして知床へ
その後 誰もが目指す
著名な道東へと 向かいます…
初めて道北の地を訪れたときの感慨を
ひとつひとつ 想い出してみました
存外心に残り そして紡ぐべく記憶とは 矢張り
悲しいほどに心震わす出逢い
そこから生まれる魂の浪漫ではなかったかと
想っております…
美瑛の丘と若き妻
道北 遥かなり…
紫陽花からのメッセージ…
私には 今年十九になる娘がいる
彼女は 私が四十一歳の時
我が家に降りて来てくれた
当たり前なことだが
それは可愛いもの…
私は中々出来の悪い父親の様で
気持ちが急くばかり
気の利いた言葉のひとつどころか
余計な言葉さえも
掛けてやってなどいない
娘に対して済まないと想うこと
数知れず…
彼女が確か三歳になる ほんの少し前
テレビで「火垂るの墓」が 放映されていた
既に夜だったので…
ビデオに録画してあるから明日見ようね
と言ったら
娘は喜んで 何時も通り素直に寝た
そして翌日 録画してある「火垂るの墓」を
二人で見ていた
初めから終わりまで もうすぐ三つの彼女…
何故か一言も喋らずに 見ていた
その日は八月六日…
そう言えばビデオを見る前に
広島の平和記念式典がテレビ放送されていた
娘と妻と私の三人で見ていたが
娘は矢張り 一言も喋らずに見入っていたのを
よく覚えている
それから数日経って…
娘と妻の折り紙が 始まった
未だ幼いので中々進まず…
暫くして やっと完成した時に
「ひろしまのひとたちに わたす」
そう言ってほっとした娘の
あの顔を私は今でも忘れることが出来ない
きっと今生を終えるとき
あの時の小さな愛娘の表情が
私の心に一瞬よぎるのだと想う…
ヒロシマ 行かなければ
広島に滞在しなければ
娘 美和が もう直ぐ三つのとき
広島の人たちに渡す
そう言ってせっせと折り紙を…
リボン 人々の輪 鶴
妻に手伝って貰いながら
その多くに手を掛けて貰いながら
せっせと…
難しさもあり かなり苦戦
然し 諦める様子なし
幼いながら たのしんでいる
もくてきがある 強い意志だ
最後は 妻がほぼ手を掛ける
そして完成す…
胸いっぱいの娘…
あれから もう直ぐ16 年
娘が小学生になったら広島 へ
そのつもりだったが
なかなか体力がつかず 入院もたびたび…
フクシマも…
色あせてしまった 折り紙たちが
我が家の祭壇に 今も…
先日 広島のとあるFM局の
紫陽花に纏(まつ)わる
ひっそりとした花の笑顔付きFacebook記事
を拝見して
ことしは 慈愛溢るる そして夢溢る広島に
滞在しなければ
そう想った…
広島の人たちに 長崎の人たちに
そして福島の人々に
皆んなの その優しき願いに
幸 多かれ…
鎮魂
ひとの真心と言う
浪漫に 触れるとき…