宮沢賢治と銀河鉄道の夜 皆んな忘れているだけなんだよ…
幼き日の 賢治と妹トシ
日本の あちこちで
宮沢賢治を語る集いやら
賢治さんを語る会 などなど
いやはや 日本人に於いて
宮沢賢治を語らせたなら
右に出る者がいない人は
それはもう 数多いるであろう
私は多分 違うので
少々 気遅れするところだが
そこは又 面白そうなので
このまま話を
進めさせて頂こうと想う…
では 何故…
宮沢賢治を語らせたなら
それ程に凄い人たちが 沢山
この日本には いるのだろうか
賢治の生き方を
人知れず 熟知しているとか
彼の考え方を
魂レベルで 理解しているとか
彼と一緒の生き方を 心掛けることを
常としているとか
恐らくは…
そう言う事では 無いだろうし
寧ろ そんな事は誰も
持続すること自体 些か無理があろう
宮沢賢治の残したメモ
彼の童話作品
日頃の ものの見方や捉え方
どうやら それらは基本
至極簡単に
表現した場合ではあるが
から「 普賢菩薩勧発品第二十八 」
までの 計二十八品 から成る
それらは皆「 方便 」であり
「 物語り 」として 語られている
例えを駆使し 衆生に分かり易く
説いている…
宮沢賢治が 童話の世界に於いて
自身の持つ 全てでもって
出来得る限り 分かり易く
人々へのメッセージを 散りばめようと
したのも
尚更 その様な背景が
あっての事だった様にも 想える
中でも「銀河鉄道の夜」は
宇宙の真理を分かり易く伝えているし
「雨ニモマケズ」についても
偶々 手帳の中身が世に出ただけで
賢治自身は 人に見せる為に
綴ったものでは 決して無かった
だからこそ
彼の感性は 常に…
清涼且つ豊か だったのかも知れない
尋ねて来た人への配慮
黒板に居場所を記した
人を誘うべく 分かり易さとか…
北上川の河岸を
英吉利(イギリス)海岸になぞらえる
その 斬新なる感性とか…
貧しい人々に対する 深い情愛
女性子供に掛ける
優しい 言の葉の数々…
彼の「 二乗作仏(にじょうさぶつ)」
について
法華経の行者としての彼に
異論を唱える
修行者の方々も おられるが
人間故の 誰にだって
偶々 解らない事だってあろう
考え方の癖と言うものも あるだろう
私の考えは飽くまで
そう言うスタンスと させて頂く
宮沢賢治が陥った
二乗作仏と言うものについて
簡単に お伝えしたい…
今の自分は病に伏せており
目の前にある この魚を食べ
滋養を付けて元気になるという
至極当たり前の選択肢が ある
だが待てよ…
この魚にも親兄弟がおり 云々
若しかしたならば この魚は
過去に於いて 自分と関わりの深い
魂であったかも知れない 云々…
最期の頃の賢治は 滋養を拒み
三十七歳の 短い生涯を閉じる
駆け抜けで お伝えすると
正に この様な 流れであった
後世になり…
賢治は 玄米では無く
本当は 七部搗(つ)き米が
好きだったとか
ユーモアのある不思議な
おまじないをした後に 彼が
刺身を食べるのを 見た事があるとか
蕎麦が好きで
相当な早食いだったとか
菜食主義の時期も あったが
飽くまで ずっとでは無かった 等々
色んな逸話も ある様だ
しかし 体が弱く
性格上の 慈善奉仕の日々で
彼の体は常に 疲れて居り
彼の体力に対して 栄養が
足りていなかった感は 否めない
微笑ましい話もある
賢治は元来 大変な早食いで
よく腹を下していた らしい…
私も早食いなので
充分に気を付けたいと 想う
色んな話しを 聴くにつけ
彼の人間味を
相当に 垣間見ることが出来る
そして余計に 身近な人となって来る
此れらの逸話…
意外に 知られていないものが多い
私は「 雨ニモマケズ 」に於いて
或る 気になる下りが あった
「 じぶんを かんじょうに いれずに 」
である
そしてつい最近 もうひとつ増えた
仙台市在住の Nさんとの
何気無い やり取りの中で
お若い Nさんが…
「 じぶんを かんじょうに いれずに
自体を 今迄知りませんでした
切っ掛けを下さって 有難うございます 」
そう 仰った…
随分と真正直な青年も 居るものだと
私は 感心させられた
Nさんはこのことについて 調べたそうだ
そして彼は こう言った…
「 みんなから 木偶の坊(でくのぼう)
と呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず 」
これも 同じ意味ですよね と
『 どちらも
「本当の意味に於いて 自分を消す」
と言う事を 考えた時に
両方兼ね備えたならば 完成ですよね 』
そう仰った Nさんの
「 学べた 」と言う 前向きな姿勢に触れ
とても心地良いと 私は想った…
宮沢賢治の あの短い詩は
私の 想像以上に
色んなものが凝縮された
深みのあるもの だった様である
賢治には勿論 Nさんにも感謝をしたい
そして 記事冒頭の問い についての
私の答えを 述べてみたい
何故 皆んなが
宮沢賢治を 語りたがるのか…
その人その人の解釈は 様々なれども
人によっては ほんの少し知っている程でも
殆ど熟知しているかの如く 熱く語りたがる
どうしてなのか…
それは 彼に心底共感し
微塵も疑っていないからだと 想う
皆んな それぞれに
自分だけの宮沢賢治を 温め
誰からも束縛されること無く
それぞれが それぞれの距離感で
独自の感動を 味わっている
そこには 価値感の共有など
微塵も 存在しないであろう
教祖と信者との関係との 対極と言えよう
先に述べさせて頂いたが
彼の人間味が そうさせるのか…
些か僭越を承知の上で
宮沢賢治になったつもりで
皆さんに少しだけ
語り掛けてみたくなった
「 何気に 遥か上を見てごらん
銀河鉄道の夜だよ…
そこに輝く 星たちは
ホントは 皆んなが
何度も行っている 星なんだ…
本当の幸福は わざわざ
探さなくても 良いんだよ
すぐ側に 在るのだから…
皆んな それを
知らないんじゃ 無いよ
忘れているだけ なんだよ
何度 忘れてもいいから
いつか 想い出そうね … 」
ナム・サッダールマ・
プンダリーカ・スートーラ
此れは サンスクリット語なので
美しき日本の
美しい言の葉で
敢えて 言ってみたいと 想う
賢治が愛して 止まなかった
南 無 妙 法 蓮 華 経 …
銀河鉄道の夜 より…